SSブログ

風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。

僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。

京都の紅葉2009 [京都と奈良・紅葉]

今回も昨年11月撮影分から。

京都の嵐山の紅葉を載せたいと思う。

(今回のBGM)



撮影:Nikon D300


渡月橋

pict0001.jpg





pict0002.jpg






pict0003.jpg




大堰川の船着場

pict0004.jpg





pict0005.jpg






pict0006.jpg





pict0008.jpg






pict0009.jpg





天龍寺

pict0010.jpg





天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺
芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。
山号は霊亀山(れいぎざん)。
寺号は詳しくは天龍資聖禅寺(てんりゅうしせいぜんじ)と称する。
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。
足利将軍家と桓武天皇ゆかりの禅寺として壮大な規模と高い格式を誇り、
京都五山の第一位とされてきた。
「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

天龍寺の地には平安時代初期、
嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(786年 - 850年)が開いた檀林寺があった。
その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に
後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)と
その皇子である亀山天皇(在位[[1259年 - 1274年)は離宮を営み、
「亀山殿」と称した。
「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、
山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。
天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。
足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、
大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。
尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。
後醍醐天皇が吉野で死去したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。
足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して
天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。
いわば「かたき」である後醍醐天皇の死去に際して、
その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、
当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。
寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、
尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に
金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。
寺の建設資金調達のため、
天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは著名である。
落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に行われた。

天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約950万平方メートル、
現在の嵐電帷子ノ辻駅(かたびらのつじえき)あたりにまで及ぶ広大なもので、
子院150か寺を数えたという。
しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。
中世には延文3年(1358年)、貞治6年(1367年)、応安6年(1373年)、
康暦2年(1380年)、文安4年(1447年)、応仁元年(1467年)と、
6回も火災に遭っている。
応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、
江戸時代の文化12年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、
蛤御門の変(禁門の変)で大打撃を受け、
現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。
なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)に
わずかに当初の面影がうかがえる。
方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。

pict0011.jpg






pict0012.jpg






pict0014.jpg






pict0015.jpg





pict0016.jpg






pict0018.jpg






pict0019.jpg





pict0020.jpg






pict0021.jpg





天龍寺の庭園にある竹林

pict0023.jpg




pict0024.jpg






pict0026.jpg




天龍寺近くの竹林

pict0027.jpg






pict0029.jpg






pict0030.jpg







pict0031.jpg




常寂光寺にて

常寂光寺は京都府京都市の嵯峨野にある日蓮宗の仏教寺院。
山号は小倉山。

百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって
境内からは嵯峨野を一望でき、秋は全山紅葉に包まれる。
その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされる。
平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる地で、
安土桃山時代末の慶長元年(1596年)に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が
隠棲の地として当山を開いた。
歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以と角倉栄可で、
小早川秀秋ら大名の寄進により堂塔伽藍が整備された。


仁王門 - 南北朝時代の貞和年間に本圀寺の南門として建立、
元和2年(1616年)に現在地に移築、藁葺き
仁王像 - 福井県小浜の日蓮宗寺院・長源寺から移された。
寺伝に運慶作というが実際の作者は不明



仁王門

pict0032.jpg





pict0038.jpg






pict0039.jpg








pict0041.jpg




二尊院にて

二尊院にそんいん)は、京都市右京区の嵯峨野にある天台宗の寺院。
山号は小倉山。詳しくは、小倉山二尊教院華台寺という。
二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像による。
境内の墓地には、角倉了以、三条実美、阪東妻三郎らの墓がある。
総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、紅葉の名所として知られる。
また、奥には、百人一首ゆかりの、藤原定家の時雨亭跡とされる場所がある。

平安時代初期の承和年中(834年 - 847年)、
嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したと伝える。
以後、荒廃するが、鎌倉時代初期、法然の高弟である湛空らにより再興される。
応仁の乱により堂塔伽藍が全焼するが、
本堂と唐門が約30年後の永正18年(1521年)に三条西実隆によって再建された。

pict0043.jpg





pict0044.jpg






pict0045.jpg






pict0046.jpg






pict0047.jpg






pict0048.jpg





pict0049.jpg






pict0050.jpg






pict0051.jpg




祇王寺にて

祇王寺(ぎおうじ)は、京都市右京区にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。
寺自体は尼寺である。山号は高松山。院号は往生院。本尊は大日如来。

元々は浄土宗の僧・良鎮が創建した往生院の跡を引き継いで今日に至る。
また、平家物語には平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王と
仏御前が出家のため入寺したとしても知られている。
その後往生院は衰退をたどり、明治時代の初期に一時廃寺となるが、
嵯峨大覚寺の支配を受け真言宗に改宗し、
1905年(明治38年)に富岡鉄斎らの尽力もあって復興を遂げた。
苔の庭でも知られる。


pict0052.jpg




人間に動じずにずーとその場にいた。

pict0053.jpg






pict0054.jpg





pict0055.jpg




pict0056.jpg




地面も秋色に染まるんだなと思った。

pict0057.jpg






pict0058.jpg






pict0059.jpg




化野念仏寺近く

愛宕街道

pict0060.jpg






pict0061.jpg





pict0062.jpg






pict0063.jpg






pict0064.jpg






pict0065.jpg






pict0066.jpg





pict0067.jpg






pict0068.jpg






pict0069.jpg






pict0070.jpg





pict0071.jpg




pict0072.jpg





pict0073.jpg





pict0074.jpg



大覚寺近く


pict0075.jpg



大覚寺にて。

大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、
真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。
本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。
嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。
また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、
日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。
また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。
寺の境内(大沢池など)では映画やテレビ(特に時代劇)などの
撮影がよく行われている。

嵯峨野の北東に位置するこの地には、
平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。
嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、
修法を行ったのが起源とされる。
嵯峨天皇が死去してから30数年後の貞観18年(876年)、
皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。
淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂(こうじゃく)法親王、
仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。

鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、
ここで院政を行ったため「嵯峨御所」とも呼ばれた。
なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、
「中興の祖」と称されている。
亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、
後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。
この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。
元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、
南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に
「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。
このように、皇室ゆかりの寺院であり、
代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、
現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。


pict0077.jpg






pict0078.jpg






pict0080.jpg






pict0081.jpg





pict0082.jpg





pict0083.jpg





pict0084.jpg






pict0085.jpg






pict0086.jpg




pict0087.jpg





pict0088.jpg




pict0089.jpg



タグ:京都 紅葉 嵐山
nice!(13) 
共通テーマ:旅行

nice! 13

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。