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風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。

僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。

北国街道 [福井県]

今回は昨年の10月撮影の北国街道から。

北国街道沿い、もしくはその周辺の田舎風景、名刹、史跡を載せたいと思う。

滋賀県の余呉湖から福井県の永平寺までの分である。

(今回のBGM)




(北国街道の解説)

一般に北国街道と呼ばれる街道には二つのルートがある。
一つは長野県の北部から新潟県の直江津(上越市)で北陸道に合流するコース。
もう一つが、滋賀県北部の琵琶湖東岸を南北につないで
福井県の今庄町で北陸道につながるコースである。
今回撮影したのは、湖北を通る北国街道である。
北国街道のなかでとくに往来が多かったのが、北陸から木之本にいたる道。
江戸時代には福井藩から南の大名は参勤交代の際にこの道を通り、
木之本から北国脇往還を抜けて関ケ原で中山道に入った。
福井県と滋賀県の県境では栃の木峠を越えるのだが、
このルートを整備したのが戦国時代の武将として知られる柴田勝家である。
福井を拠点に北陸を治めていた勝家は、
それまで大きく西に迂回して湖北に入っていた北国街道を南進させることで
最短距離のコースをつくった。
織田信長の死後、豊臣秀吉と対立した柴田勝家は天正十年(一五八二)に
賎ケ岳で秀吉軍と戦うが、このときも栃ノ木峠を越えて賎ケ岳に向かった。
そして、戦いに敗れた勝家が敗走したのも、この北国街道であった。
一方、勝利を収めた秀吉は、越前に入ったあと長浜城に帰るが、
このとき木之本から長浜までは北国街道を通ったのではないかと思われる。

撮影:Panasonic LUMIX DMC-G1

余呉湖

滋賀県の最も北に位置する余呉湖は、周囲約4.6kmの小さな内湖。
三方を山に囲まれ、別名「鏡湖」とも称されるその神秘的な美しさゆえに、
自然と羽衣伝説が生まれてきたのだろう。
岸辺には、天女が羽衣を掛けた、といわれる柳の木があり、
大きな枝を広げている。
湖の周囲は自然豊かなサイクリングコースになっており、
遊歩道や野外活動センターなども整備されている。
また、ワカサギ釣りのスポットとしても知られ、
冬には湖の桟橋から釣り糸を垂れる人を多く見かけることができる。

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これがその柳の木

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余呉町柳ヶ瀬

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栃の木峠より南にある村で、中河内あたり。

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栃の木峠

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板取宿にて。

板取宿は近江・木之本から栃ノ木峠を越え今庄へ至る重要な宿場だった。
というのもそれまでは近江から越前に入るコースは
栃ノ木峠→木ノ芽峠→敦賀→越前だったのが、
柴田勝家が整備してからは木ノ芽峠を越えずに
今庄コースで行けるようになったのだ。
江戸時代には番所が設けられた。
木ノ芽峠から言奈地蔵を超えてさらに北へ街道を
下っていくと石畳の道と4軒の兜屋根の民家が現れる。
4軒の家2軒は実際にここで生活をしておられる。

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今庄宿

今庄宿は、京と北陸を結ぶ北国街道の宿場町。
北国街道は木之本から栃ノ木峠を越えてこの今庄宿に至っているが、
その整備前から利用されていた木ノ芽峠越えの街道も、
この今庄宿を通っていた。
まさに、古くからの交通の要衝である。
いわば北陸の玄関口である今庄宿は、中世から江戸時代にかけて、
北国街道屈指の宿場町として繁栄した。
難所として知られた木の芽峠を越えの旅人には、
山中の都のように見えたかも知れない。
現在では観光客さえ少ないきわめてひっそりとした町であるが、
通りに沿って残る立派な家屋に、その名残が見て取れる。

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一乗谷近くの集落

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一乗谷朝倉氏遺跡にて

一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、
福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡である。
戦国時代に越前国を支配した朝倉氏の居館および山城と城下町からなる。
山城の部分は一乗谷城(いちじょうだにじょう)と呼ばれる。
遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、
そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で
国の特別名勝の指定を受けている。


戦国時代・安土桃山時代
軍記物である『朝倉始末記』には1471年(文明3年)に
戦国初代朝倉敏景(孝景・教景)が黒丸館(福井市黒丸町)から
本拠を移したと記されている。
しかし、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの新資料によると、
朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。
文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、
また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから
応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが
避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。
このため北ノ京とも呼ばれた。
戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、
越前の中心地として栄えていた。
1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪する。
1567年(永禄10年)11月21日には戦国5代朝倉義景が
足利義秋(1568年(永禄11年)4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎える。
義景は義秋を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため
織田信長を頼って美濃国に出国する。
1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した義景は
一乗谷を放棄し大野へ逃れる。
翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。
その後、信長より守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が
一乗谷に館を構え、越前を統治していた。
しかし、同じ旧臣である富田長繁ら国人は長俊に反感を抱いており、
民衆に一揆を起こさせるべく画策した。
1575年(天正3年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆が蜂起、
翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人が
一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた。
信長が一揆を平定した後、
越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、
辺境である一乗谷は田畑の下に埋もれていった。


復元町並を撮影。

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永平寺にて

永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある
曹洞宗大本山の寺院である。
山号を吉祥山と称する。
開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。
總持寺とならんで日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。


道元の求法
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。
父は村上源氏の流れをくむ名門久我(こが)家の
久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、
14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。
道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、
ほんらい悟っている(本覚思想)はずなのに、
なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。
道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、
栄西は道元が出家した2年後に、すでに世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)、建仁寺に入り、
栄西の直弟子である明全(1184-1225)に師事した。
しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、
真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。
師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄禅師(1163-1228)に入門し、修行した。
如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐」(しかんたざ)を
強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。
道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。
なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、
2度と日本の地を踏むことはできなかった。
日本へ戻った道元ははじめ建仁寺に住し、
のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、
旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。

越前下向
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、
道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、
興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。
寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。
この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、
現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、
道元はここでひと冬を過ごすが、
翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に
傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。
これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に
山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後
漢明帝のときの元号「永平」からであり、
意味は「永久の和平」である。

道元以降
その後の永平寺は、2世孤雲懐奘(こうんえじょう)、
3世徹通義介(てっつうぎかい)のもとで整備が進められた。
義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり
寺勢は急激に衰えた。
一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。
暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、
応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。
その後も火災に見舞われ、現存の諸堂はすべて近世以降のものである。
応安5年(1372年)、後円融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。
天文8年(1539年)、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の綸旨を受ける。
天正19年(1591年)、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受ける。
元和元年(1615年)、徳川幕府より法度が出され總持寺と並び大本山となる。
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勅使門(唐門)

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仏殿

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仏殿

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仏殿

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