風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。
僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。奈良の紅葉2009 [京都と奈良・紅葉]
今回も昨年11月撮影分から。
奈良の紅葉の写真を載せたいと思う。
東大寺周辺から、長谷寺、室生寺を巡っている。
撮影:Nikon D300
東大寺大仏殿
東大寺鐘楼
二月堂にて
奥に見えるのは二月堂
手向山神社
春日大社
奈良公園にて。
浮見堂にて。
奈良公園に戻ってきた。
東大寺南大門
ここからは長谷寺。
長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市にある真言宗豊山派(ぶざんは)総本山の寺院。
山号を豊山神楽院と称する。
本尊は十一面観音、開基(創立者)は道明上人とされる。
西国三十三箇所観音霊場の第八番札所であり、
日本でも有数の観音霊場として知られる。
大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。
初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬~5月上旬は150種類以上、
7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。
また「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」など多くの古典文学にも登場する。
中でも「源氏物語」にある玉鬘(たまかずら)の巻のエピソード中に
登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。
長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、
創建の詳しい時期や事情は不明である。
寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、
道明上人が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、
続いて神亀4年(727年)、徳道上人が東の丘(現在の本堂の地)に
本尊十一面観音像を祀って開山したというが、
これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。
長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。
万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、
中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。
長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、
平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、
16世紀以降は興教大師覚鑁(かくばん)によって興され
頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。
天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山を追われた新義真言宗門徒が入山し、
同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。
近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、
学問寺としての性格を強めている。
十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は
鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く、
他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。
伽藍
入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)を上る。
本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。
国宝の本堂のほか、仁王門、下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊、
三百余社、鐘楼、繋廊が重要文化財に指定されている。
本堂(国宝)-本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、
礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、
前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。
本堂は奈良時代から室町時代の天文5年(1536年)まで7回焼失している。
7回目の焼失後、豊臣秀長の援助で天正16年(1588年)に新しい堂が完成した。
その後、堂の雨漏りや傷みが激しいため、修理ではなく新築することとなり、
徳川家光の寄進を得て、5年がかりの工事の後、
慶安3年(1650年)に新築落慶したのが現・本堂である。
高さ10メートル以上ある本尊・十一面観音像は、
天文5年の本堂焼失の2年後に完成しており、
慶安3年の新本堂建設工事は本尊を原位置から移動せずに行われた。
そのため、本堂は内陣の中にさらに内々陣(本尊を安置)がある
複雑な構成となっており、内々陣は巨大な厨子の役目をしている。
近世前半の大規模本堂の代表作として、2004年12月、国宝に指定された。
室生寺にて。
室生寺(むろうじ)は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。
山号を宀一山(べんいちさん)と号する。
開基(創立者)は、賢璟(けんきょう)、本尊は釈迦如来である。奈良盆地の東方、
三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。
宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在する。
平安時代前期の建築や仏像を伝え、境内はシャクナゲの名所としても知られる。
女人禁制だった高野山に対し、
女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。
なお、山号の「宀一」は「室生」の略だという。仏塔古寺十八尊第十八番。
天武天皇9年(680年)、役小角(えんのおづぬ、役行者)の草創、
空海の中興という伝承もあるが、記録で確認できる限りでは、
奈良時代最末期の草創と思われる。
室生寺の東方約1キロのところには竜神を祀る室生竜穴(りゅうけつ)神社があるが、
室生寺の草創にも竜神が関係している。
『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)によると、
奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)、
時の東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、
室生の地において延寿の法を修したところ、竜神の力でみごとに回復したので、
興福寺の僧・賢璟(けんきょう)が朝廷の命でここに寺院を造ることになったという。
賢璟は延暦12年(793年)没しており、
造営は同じ興福寺の僧である弟子の修円に引き継がれた。
修円は承和2年(835年)に没しているが、現存の室生寺の堂塔のうち、
この時期(9世紀前半)にまでさかのぼると見られるのは五重塔のみであり、
現在のような伽藍が整うまでには相当の年数を要したものと思われる。
草創にかかわった2人の人物が興福寺僧であった関係から、
室生寺は長らく興福寺との関係が深かったが、
時代は下って江戸時代の元禄11年(1698年)、興福寺の法相宗から独立して、
真言宗寺院となった。
女人の入山が許されたことから「女人高野」と呼ばれ、
これは室生寺の代名詞にもなっている。
近世には5代将軍徳川綱吉の母桂昌院の寄進で堂塔が修理されている。
1964年には真言宗豊山派から独立し、真言宗室生寺派の大本山となった。
室生山の山麓から中腹にかけてが境内となっている。
典型的な山岳寺院で、石段を上るごとに次の堂宇が現れる。
仁王門(近代の再建)をくぐり、最初の急な石段(鎧坂という)を上がると、
正面に金堂(平安時代、国宝)、左に弥勒堂(鎌倉時代、重文)がある。
さらに石段を上ると如意輪観音を本尊とする本堂(灌頂堂)(鎌倉時代、国宝)、
その上に五重塔(平安時代初期、国宝)があり、
石段は空海を祀る奥の院御影堂(みえどう、室町時代前期、重文)へと続いている。
室生寺五重塔
奈良の紅葉の写真を載せたいと思う。
東大寺周辺から、長谷寺、室生寺を巡っている。
撮影:Nikon D300
東大寺大仏殿
東大寺鐘楼
二月堂にて
奥に見えるのは二月堂
手向山神社
春日大社
奈良公園にて。
浮見堂にて。
奈良公園に戻ってきた。
東大寺南大門
ここからは長谷寺。
長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市にある真言宗豊山派(ぶざんは)総本山の寺院。
山号を豊山神楽院と称する。
本尊は十一面観音、開基(創立者)は道明上人とされる。
西国三十三箇所観音霊場の第八番札所であり、
日本でも有数の観音霊場として知られる。
大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。
初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬~5月上旬は150種類以上、
7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。
また「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」など多くの古典文学にも登場する。
中でも「源氏物語」にある玉鬘(たまかずら)の巻のエピソード中に
登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。
長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、
創建の詳しい時期や事情は不明である。
寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、
道明上人が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、
続いて神亀4年(727年)、徳道上人が東の丘(現在の本堂の地)に
本尊十一面観音像を祀って開山したというが、
これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。
長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。
万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、
中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。
長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、
平安時代中期には興福寺(法相宗)の末寺となり、
16世紀以降は興教大師覚鑁(かくばん)によって興され
頼瑜僧正により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。
天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山を追われた新義真言宗門徒が入山し、
同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。
近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、
学問寺としての性格を強めている。
十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は
鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く、
他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。
伽藍
入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)を上る。
本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。
国宝の本堂のほか、仁王門、下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊、
三百余社、鐘楼、繋廊が重要文化財に指定されている。
本堂(国宝)-本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、
礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、
前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。
本堂は奈良時代から室町時代の天文5年(1536年)まで7回焼失している。
7回目の焼失後、豊臣秀長の援助で天正16年(1588年)に新しい堂が完成した。
その後、堂の雨漏りや傷みが激しいため、修理ではなく新築することとなり、
徳川家光の寄進を得て、5年がかりの工事の後、
慶安3年(1650年)に新築落慶したのが現・本堂である。
高さ10メートル以上ある本尊・十一面観音像は、
天文5年の本堂焼失の2年後に完成しており、
慶安3年の新本堂建設工事は本尊を原位置から移動せずに行われた。
そのため、本堂は内陣の中にさらに内々陣(本尊を安置)がある
複雑な構成となっており、内々陣は巨大な厨子の役目をしている。
近世前半の大規模本堂の代表作として、2004年12月、国宝に指定された。
室生寺にて。
室生寺(むろうじ)は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。
山号を宀一山(べんいちさん)と号する。
開基(創立者)は、賢璟(けんきょう)、本尊は釈迦如来である。奈良盆地の東方、
三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。
宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在する。
平安時代前期の建築や仏像を伝え、境内はシャクナゲの名所としても知られる。
女人禁制だった高野山に対し、
女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。
なお、山号の「宀一」は「室生」の略だという。仏塔古寺十八尊第十八番。
天武天皇9年(680年)、役小角(えんのおづぬ、役行者)の草創、
空海の中興という伝承もあるが、記録で確認できる限りでは、
奈良時代最末期の草創と思われる。
室生寺の東方約1キロのところには竜神を祀る室生竜穴(りゅうけつ)神社があるが、
室生寺の草創にも竜神が関係している。
『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)によると、
奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)、
時の東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、
室生の地において延寿の法を修したところ、竜神の力でみごとに回復したので、
興福寺の僧・賢璟(けんきょう)が朝廷の命でここに寺院を造ることになったという。
賢璟は延暦12年(793年)没しており、
造営は同じ興福寺の僧である弟子の修円に引き継がれた。
修円は承和2年(835年)に没しているが、現存の室生寺の堂塔のうち、
この時期(9世紀前半)にまでさかのぼると見られるのは五重塔のみであり、
現在のような伽藍が整うまでには相当の年数を要したものと思われる。
草創にかかわった2人の人物が興福寺僧であった関係から、
室生寺は長らく興福寺との関係が深かったが、
時代は下って江戸時代の元禄11年(1698年)、興福寺の法相宗から独立して、
真言宗寺院となった。
女人の入山が許されたことから「女人高野」と呼ばれ、
これは室生寺の代名詞にもなっている。
近世には5代将軍徳川綱吉の母桂昌院の寄進で堂塔が修理されている。
1964年には真言宗豊山派から独立し、真言宗室生寺派の大本山となった。
室生山の山麓から中腹にかけてが境内となっている。
典型的な山岳寺院で、石段を上るごとに次の堂宇が現れる。
仁王門(近代の再建)をくぐり、最初の急な石段(鎧坂という)を上がると、
正面に金堂(平安時代、国宝)、左に弥勒堂(鎌倉時代、重文)がある。
さらに石段を上ると如意輪観音を本尊とする本堂(灌頂堂)(鎌倉時代、国宝)、
その上に五重塔(平安時代初期、国宝)があり、
石段は空海を祀る奥の院御影堂(みえどう、室町時代前期、重文)へと続いている。
室生寺五重塔
Facebook コメント