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風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。

僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。
歴史的建築物 ブログトップ
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歴史的な建築物に惹かれて(滋賀県・菅山寺) [歴史的建築物]

今回は菅山寺の写真を載せたいと思う。
インターネットで調べていたら、
滋賀県の菅山寺の山門の写真が目に留まり、
森の中の廃寺を一度見てみたいと思って行ったのである。

撮影:OLYMPUS OM-D E-M5、M.ZUIKO DIGITAL ED 14-150mm F4.0-5.6

菅山寺の解説

大箕(だいき)山中にある、真言宗豊山派の古刹。
奈良時代、孝謙天皇の勅を受けた照檀上人が開山、
龍頭大箕寺と称し、平安前期に菅原道真が宇多天皇の勅使として入山、
3院49坊を建てて大箕山菅山寺と改名した。

菅山寺は藤原時代から鎌倉時代に最も栄え、
興福寺の古い記録には、僧房105末寺70余とあり、
極めて大きな寺であった。
天正10年(1582)の大地震により、当寺は壊滅した。
この時経蔵の宋版大蔵経の収納箱約40箱も破損している。
その後、黒田村(現木之本)の土豪大音氏出自の専秀が再建に努力し、
江戸時代初めに堂宇を再興した。
高野山で修法し当寺に帰住した専秀に帰依した石田三成から、
寺領30石と山林を寄進安堵された。
慶長18年(1613)、徳川家康の命で、専暁が宋より持ち帰った
「宗版一切経七千余巻」を芝の増上寺へ寄進、
代償として寺領50石を与えられ、家康黒印状も得、以降幕末まで継承。
この経典は現在、国の重要文化財に指定されている。
浅井長政、石田光成、徳川幕府の庇護もあったが、
江戸時代末期より、末寺が他宗に転宗して菅山寺の維持が困難となり、
彦根社寺役人に救済を願い出てはいるが、
明治初期までの菅山寺はまだ相当な規模を誇っていた。


駐車場から森の中に入るとじきに目に入った。

いくつか要所要所にあり、このまま行けばいいと教えてくれている。

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10分ほど下ると、廃寺が見えてきた。

本堂と経堂が見えている。

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これが今回一番見たかった山門の大きな木に挟まれた風情。

人影のない森閑とした道を進むと、間口が2m弱の朽ちた山門と出合う。
山門の両脇には巨石と見間違える、大ケヤキ(県指定)の古木2本がそびえる。
菅原道真公の手植と伝える。
幹周り6mを越え、樹高15m以上の巨木である。
滋賀県の自然記念物に指定されていたが、
写真の右側のケヤキの巨木が強風と腐食により2017(平成29年)9月に折れた。

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歴史的な建築物に惹かれて(岐阜県・日龍峯寺) [歴史的建築物]

今回は日龍峰寺の写真を載せたいと思う。
本堂が清水寺の舞台と思わせるような造りである特徴的なお寺である。
以前に一度訪れたことがあるが、
寺に到着する直前に野猿の集団に出くわして、かなり驚いた記憶がある。
それだけ人があまり住んでいない場所にある。

撮影:OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm


(日龍峰寺の解説)

日龍峰寺(にちりゅうぶじ)は、岐阜県関市下之保にある高野山真言宗の寺院である。
山号は大日山。高澤観音とも呼ばれる。
また本堂が京都の清水寺本堂に似た舞台造り(懸崖造)であることから
「美濃清水」との異名がある。
本尊は千手観世音菩薩。美濃三十三観音霊場第一番札所(かつては第二十五番札所)。
中濃八十八ヶ所第六十一番札所。

寺伝によれば、5世紀前半の仁徳天皇の時代、美濃国に日本書紀にも登場する
両面宿儺(りょうめんすくな)という豪族がいた。
両面宿儺はこの地方に被害を及ぼしていた龍神を退治し、
龍神の住んでいたこの山に祠を建立したのが始まりと伝わる。
鎌倉時代、北条政子によって再興されたと伝えられている。
室町時代、応仁の乱によって多宝塔を残し堂宇の大半を焼失した。
その後、江戸時代になって現在の伽藍が整えられた。

●伽藍

仁王門 - 享保3年(1718年)建造。
本堂 - 江戸時代前期の寛文10年(1670年)建立。岐阜県指定重要文化財。
多宝塔 - 鎌倉時代後期、北条政子によって建立されたと伝えられる。重要文化財。
鐘楼
千本檜
薬師堂
金毘羅堂
庫裡
みたらしの霊水



仁王門を撮影。

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歴史的な建築物に惹かれて(岐阜県・日吉神社) [歴史的建築物]

今回は日吉神社境内にある三重塔だけを載せたいと思う。

いつものサイズだと三重塔の魅力が伝わらないと思ったので

大きくしています。


撮影:OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm


日吉神社とは・・・

弘仁8年(817年)、伝教大師(最澄)が東国へ天台宗の布教に東山道を通られた折、
神戸の地に立ち寄られた。
当地の郡司・安八太夫安次は大師の教えに帰依した。
それで大師は安次の懇請に応じて影向山(ようごうさん)神護寺善学院を建て、
近江坂本・日吉神の四柱の神を勧請、日吉信仰の社を創建された。日吉神社である。

●重要文化財
三重塔
木造地蔵菩薩坐像(おもかる地蔵)
木造十一面観音坐像 2躯
石造狛犬(1対)


(三重塔の解説)

国の重要文化財指定

天正13年(1587年)稲葉一鉄修造の棟札が善学院に遺っているが、
それより約70年前に斎藤伊豆守利継が建立したものであろうと言われている。

塔の大きさ
 初重 方10.5m 軒高 4.7m
 二重 方10.2m 軒高 9.02m
 三重 方9.02m 軒高 13.5m
 露盤下までの高さ   17.76m
 相輪頂上までの高さ  24.6m

塔の構造
三層塔婆・毎層三間 組物三手先 軒二重棰 
初重勾欄は天井拭板 屋根檜皮葺 相輪鉄製
室町時代の豪壮華麗な建築様式を伝えている。



まずは広角で翼を広げたようなイメージで撮ってみる。

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お寺と花と木々の緑と [歴史的建築物]

今回は性海寺と甚目寺の写真を載せたいと思う。
お寺の建物の風景に段々飽きてきたので、
これからは自然風景を多く取り入れて撮影したいと思っている。

撮影:Nikon D7200、NIKKOR 16-85mm f/3.5-5.6G ED VR

(性海寺の解説)

性海寺(しょうかいじ)は、愛知県稲沢市にある真言宗智山派の寺院。
本尊は善光寺式阿弥陀三尊像。

寺伝によれば、弘仁年間(810年~924年)空海によって愛染明王を本尊として
創建されたと伝えられ、治承年間(1177年~1181年)阿弥陀三尊像が安置されたという。
建久年間(1190年~1199年)に長谷部源政が開基となり良敏が開山となって中興されたという。
その後、北条時頼・足利尊氏・織田敏定・浅野長政・松平忠吉・徳川義直の庇護を受けた。
稲沢市では、境内隣の5703平方メートルを大塚性海寺歴史公園として平成4年に開園し、
毎年6月1日頃から「稲沢あじさいまつり」を開催している。
園内には、「伊豆の華」「カシワバアジサイ」「城ケ崎」など約90種1万株のあじさいがある。


●重要文化財(国指定)

〇本堂 附:旧須弥壇擬宝珠4箇
慶安元年(1648年)の建立。入母屋造杮葺き、方三間で、
正面向拝の屋根は唐破風造とする。
近世の建物だが、内部の天井、須弥壇などには中世の部材が残されている。
須弥壇には弘安4年(1281年)の墨書がある。
〇宝塔
本堂内に安置する、円筒形の塔身に宝形屋根を架けた形式の塔婆。
本尊を安置する厨子として用いられており、高さ2.6メートルの小塔であるが、
「建造物」として重要文化財に指定されている。
須弥壇と同じく弘安4年(1281年)頃の建立と推定される。
〇多宝塔 - 室町時代
〇木製漆塗彩色金銅種子装五輪塔(性海双円塔) 附:塔内納入品一括(明細は後出)
高さ48.7センチメートルの五輪塔。色漆と顔料で五色に彩色し、
その上に金銅製の種子(梵字)を貼り付ける。解体修理に伴い、
内部から能作生珠(のうさしょうしゅ)などの納入品が発見され、
納入文書の記載から塔は弘安8年(1283年)の作と判明した。

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宇治平等院鳳凰堂 [歴史的建築物]

今回は宇治平等院鳳凰堂の写真を載せたいと思う。

2009年5月に撮影したものだが、画像修正をして載せている。

最近のソフトは少々ピントが甘い写真でも、

シャープネスをかけると見事に変化させてくれる。

それで昔の写真をいじってみたくなったのである。



宇治平等院だが、角度を少しずつ変えて何枚も撮ってみた。

宇治平等院は京都奈良の神社仏閣の中で特にお気に入りの建物で、

美しいなと思う。

撮影:NIKON D300

この橋を渡ると平等院入り口はすぐ近く。

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揖斐川町の古刹 [歴史的建築物]

今はなかなか撮影に行けなくてブログの更新もままなりません。

しかし、今回はカメラを購入したので久しぶりに撮影してきました。

なので、載せたいと思います。

しばらくはたまに更新するだけになりますが、

以前のようにお付き合いくだされば光栄です。

今回購入したカメラは、2016年に発売されたカメラで、

決して新しいカメラではないのですが、

自分にとって初めてのキャノン機になります。

キャノンのカメラはずんぐりむっくりな感じがして、

どうも好きになれず、フィルム時代から敬遠してきました。

ところが、M5を見た時、結構四角張ってるなと思い気に入り、

キャノンのカメラってどんな感じなのかなと思い、

無性に使ってみたくなりました。




キャノン M5.jpg

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撮影:Canon EOS M5、SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC MACRO OS HSM

岐阜県揖斐川町には古刹が2つもあります。

まずは横蔵寺で撮影しています。




(横蔵寺の解説)


横蔵寺(よこくらじ)は岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原にある天台宗寺院。
山号は両界山、本尊は薬師如来。西美濃三十三霊場第一番札所。
重要文化財を含む多数の文化財を有し、「美濃の正倉院」とも呼ばれる。
紅葉の名所でもあり秋の行楽シーズンには特に多くの参拝客が訪れる。
このシーズンに「横蔵寺もみじまつり」が開催されライトアップが行われている。
西国三十三所観音霊場の最後(33番)の札所である谷汲山華厳寺の西方、
さらに奥まった山間の小さな盆地に位置する。
平安時代 - 鎌倉時代の仏像等、多くの文化財を有する古寺であるが、
草創や沿革については史料が乏しく、
平安時代末期ころまでの寺史はほとんど不明といってよい。
寺伝によれば、横蔵寺は日本天台宗の宗祖・最澄が
自作の薬師如来を安置して創建した寺とされている。
伝承によれば、最澄は比叡山延暦寺を開創する際に、
本尊薬師如来像を自ら刻んだが、その薬師如来像を造ったのと同じ霊木から、
もう1体の薬師如来像を造った。
最澄は、その2体目の薬師如来像を
笈(おい、山伏や山林修行者が背中に背負う箱状のもの)に入れて背負いながら
諸国を旅したが、延暦22年(803年)、横蔵寺のある地まで来た時に
薬師如来像が動かなくなったので、
ここに一寺を建立して薬師如来像を祀ることにし、
地元の三和次郎大夫藤原助基が寺を建立したという(創建年は801年あるいは805年とも)。
最澄自ら、笈を背負って都から遠く離れた美濃の山奥までやって来たというのは、
史実として信じることはできないが、
当寺が延暦寺と関係の深い寺院であることを示唆しているといえよう。
なお、創建当時の横蔵寺は現在地からさらに1.5キロメートルほど
奥に入った円山の頂上付近にあり、現在地に移ったのは近世初期である。
鎌倉時代には38坊を有する大寺院だったというが、
鎌倉時代 - 室町時代の寺史も、断片的にしかわかっていない。
横蔵寺に言及した中世以前の文献としては、
鎌倉時代後期の禅僧・無住の著である仏教説話集『沙石集』に
「横倉薬師」の霊験について記しているのが挙げられる程度である。


横蔵寺三重塔(岐阜県指定重要文化財)
現存する仏像の中で、大日如来像(重要文化財)には
平安時代最末期の寿永2年(1183年)の銘があり、
同年、三重塔の本尊として仏師筑前講師により造立されたことが明らかである 。
また、金剛力士(仁王)像には、建長8年(1256年)の銘があり、
作者は鎌倉時代を代表する仏師の一人である肥後別当定慶であることがわかっている。
寺史に関する史料の乏しい中で、これらの仏像の像内銘は貴重なものである。
元亀2年(1571年)、織田信長の兵火で焼失し、
現在ある本堂、三重塔、仁王門などの主要伽藍は江戸時代の復興である。
織田信長の比叡山焼き討ちによって、延暦寺の伽藍が灰になった後、
横蔵寺の本尊薬師如来像は、「延暦寺本尊と同じ霊木から造られた、最澄自作の像」
という由緒ある像だということで延暦寺に移された。
その代わりに、洛北の御菩薩池(みぞろがいけ、現・京都市北区の深泥池)から移されたのが、
横蔵寺の現本尊である薬師如来像であるという。




山門を撮影。

改修工事がなされていて、ビニールシートなど写らないよう角度を考えては撮影しています。

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山門をくぐると三重塔が見えてくる。

このシグマのレンズは逆光耐性が強いようです。

ルミックス G VARIO 12-60mm/F3.5-5.6で撮影したときは、

光が少しでも入ろうものなら、過剰な反応を起こして、

画質を低下させていました。

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駅舎に惹かれて [歴史的建築物]

今回は、鳥居本駅を載せたいと思う。
以前にも撮影して載せたことがあるが、
久しぶりに近くを走ったので寄ってみた。
この駅舎、こじんまりとまとまっていて、
デザイン的にお気に入りである。

撮影:LUMIX GX7MK2、LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm/F2.8-4.0


鳥居本駅(とりいもとえき)は、滋賀県彦根市鳥居本町にある近江鉄道本線の駅である。
駅番号はOR03。

1931年(昭和6年)3月15日 - 開業。
1988年(昭和63年)3月12日 - 貨物取扱廃止。
2013年(平成25年)3月29日 - 駅舎が登録有形文化財として登録。

島式ホーム1面2線の地上駅。現在は終日無人駅となっている。
駅舎とは、ホーム南端の構内踏切でつながる。
ホーム上には古い待合室がある。
駅舎は開業時からのもので、独特の腰折れ屋根を持つ洋風建築が特徴。
かつては駅構内に日本石油米原油槽所があり、
構内に小規模の荷役線が敷かれていた。
当駅から彦根駅を経由して安治川口駅までタンク車による石油輸送が行われており、
当駅 - 彦根駅間が近江鉄道で最後まで残った貨物列車運行区間であったが、
油槽所閉鎖に伴い1988年に廃止され近江鉄道の貨物輸送は幕を閉じた。


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歴史的な建築物に惹かれて(岐阜県・小山寺と神光寺など) [歴史的建築物]

今回は、岐阜県美濃加茂市の小山寺、関市の神光寺と蓮華寺、
山県市の大福寺の写真を載せたいと思う。
風化した寺の建築物に非常に興味があり、そうでない建物にはあまり興味がないので、
寺自体を紹介した記事ではないです。


撮影:LUMIX GX7MK2、LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm/F2.8-4.0

小山寺を撮影。
飛騨川の風景写真も撮れると思い、行ってみたいと思った。

(小山寺の解説)

小山寺(しょうざんじ)は、岐阜県美濃加茂市にある臨済宗妙心寺派の寺院である。
山号は仁慈山。
通称「小山観音」、「こやま観音」、「子授け観音」。
毎年3月第1日曜日の初午祭は賑わう。
本尊は馬頭観音。三面六臂の立像で、養蚕の守護仏とされている。
また、開運のご利益があるという。
美濃三十三観音霊場第二十九札所。

飛騨川の中の岩の島にある。これは、元々は陸続きの岩山にあったが、
下流の木曽川に今渡ダムが完成すると周りが水没し、岩山は孤島となってしまったのである。
1938年(昭和13年)、かんのん橋が開通し、飛騨川左岸(下米田町)と結ばれる。

伝承によれば、平安時代末期、木曾義仲が母親の若名御前が
この近くで亡くなったさい、若名御前を弔う為に、
所持していた(若名御前の護身仏の説もある)1寸8分の馬頭観音を祀り、
観音堂を建立したのが始まりという。
室町時代の1450年~1500年頃、仁済禅師が、唐銭(周元通報)300枚を溶かして
高さ1尺の馬頭観音を作り、小山観音の新たな本尊としたという。
木曾義仲ゆかりの馬頭観音は秘仏とされる。
1657年(明暦3年)、小山観音堂は仁慈山 小山寺として開創される。


飛騨川に浮かぶ小舟を撮影。

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ある村のお寺の風景 [歴史的建築物]

山県市葛原という村を通りがかった。
気になる風景を撮影したので載せたいと思う。

撮影:OLYMPUS OM-D E-M10 MarkIII、LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm/F2.8-4.0


今では珍しい屋根の民家を撮影。

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とても綺麗な塀を持った大きな家が気になり、
車を停めて撮影した。

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八月堂というお寺が屋根越しに見えている。
以前にも撮影したことがあったが、
最近お寺の撮影に凝っているので、
また違った感覚で写真が撮れるかなと思い寄ってみた。

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歴史的な建築物に惹かれて(愛知県・甚目寺) [歴史的建築物]

今回は、愛知県のあま市にある甚目寺を載せたいと思う。
愛知県随一の古刹である。

撮影:OLYMPUS OM-D E-M10 MarkIII、LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm/F2.8-4.0


甚目寺(じもくじ)は、愛知県あま市(旧・海部郡甚目寺町)にある
真言宗智山派の寺院である。山号は鳳凰山。
鎮守として、式内社の漆部神社(ぬりべじんじゃ、元、八大明神社)があったが、
神仏分離令の後、境内を分けた。
所在していた甚目寺町の名は、当寺によっている。
通称「甚目寺観音」で、正式名称より通称で呼ばれることが多い。
本尊は聖観音。高さ一尺一寸五分の秘仏であり、
本堂に安置される十一面観音像(50年に1回開帳の秘仏)の胎内仏である。
東海三十六不動尊霊場第五番札所。尾張三十三観音第十六番札所。
尾張四観音の一つである。

伝承によれば、推古天皇5年(597年)、
伊勢国の漁師である甚目龍麿(甚目龍麻呂、はだめたつまろ)が漁をしていたところ、
当時海であったこの地付近で観音像が網にかかり、
その観音像を近くの砂浜に堂を建て安置したのが始まりという。
この観音像は、敏達天皇14年(585年)に、物部守屋、中臣勝海の手によって
海に投げられた3体の仏像のうち1体(聖観音)といわれている。
残りの2体のうち、阿弥陀如来は善光寺、勢至菩薩は安楽寺(太宰府天満宮)にあるという。
龍麻呂は、自らの氏をもって「はだめでら」と名づけた寺堂をたてたが、
これは、「波陀米泥良」と書いた。
「甚目寺」と書くようになったのは、中世からであるらしい。
言い伝えでは、創建の経緯は以上の通りだが、
実際、その歴史は奈良時代以前に遡ることができる、
という仏教考古学者である石田茂作の研究もある。
天智天皇が病気になったとき、甚目寺で祈祷したところ、快癒したという。
このことから、甚目寺は、勅願寺となった。
鎌倉時代には1山500坊、約3000人の僧がいたと伝わる。
戦国時代には、織田信長や徳川家康の保護を受けて繁栄した。
その他、豊臣秀吉から160石、徳川義直から300石の寄進があった。

沿革[編集]
597年(推古天皇5年) - 創建。
679年(天武天皇7年) - 寺堂が整えられ、鳳凰山の山号を受けた。
853年(仁寿3年)8月8日 - 工事で堂宇を建立するが、一時衰退した。
1103年(康和5年) - 藤原連長や僧智能、大江重房らの力によって再興された。
1124年(天治元年) - 地震で被害を受ける。
1126年(大治元年) - 大江為道とその女、長谷部氏が、復興につくした。
1196年(建久7年) - 源頼朝の命により、南大門の再建が行われる。
1201年(建仁元年) - 聖観上人が勧進、再興した。
1586年(天正13年) - 天正地震による被害を受ける。これを復興したとき、大和国長谷寺の伽藍をまねた、という。
このとき、本堂を再建し、仁王門の大規模な修繕がなされた。
1627年(寛永4年) - 三重塔の再建が行われる。
1634年(寛永11年) - 東門の再建が行われる。
1644年 (正保年間) - 仁王門の修理が行われる。
1873年(明治6年)7月19日 - 本堂が全焼するなどの被害を出した火災が起こる。
1875年(明治8年) - 仮の本堂を建築した。
1891年(明治24年) - 濃尾地震による造営物の倒壊、破損があった。
1992年(平成4年) - 本堂が再建された。


まずは南大門を撮影。

駐車場を探しているときに目に入ったが、

さすがに古刹と呼ばれるだけあって、門から立派だと感心した。

街中にあるので写したくないものがいっぱい入る。

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広角側を使用して変化をつけてみた。

建物を撮るときは歪みが出るので12mm(換算24mm)を

使う場面はそう多くはないかもしれないが、

何かマンネリ気味だなと感じたら、面白いと思う。

歌舞伎の決めポーズみたいな気がする。(意味不明かな)

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南大門をくぐると素晴らしい見栄えの三重塔が目に飛び込んできた。

これだけの風格のある三重塔は奈良や京都に行かないと見れないなと思った。

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歴史的な建築物に惹かれて(岐阜県・真禅院) [歴史的建築物]

今回は真禅院の写真を載せたいと思う。

真禅院には国の重要文化財の三重塔がある。


撮影:OLYMPUS OM-D E-M10 MarkIII、LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm/F2.8-4.0

(真禅院の解説)

真禅院(しんぜんいん)は、岐阜県不破郡垂井町にある天台宗の寺院である。
山号は朝倉山(あさくらさん)。
山号にちなみ朝倉山真禅院、朝倉寺、または単に朝倉山とも呼ばれている。
かつての南宮大社の僧坊であった。
本尊は無量寿如来(阿弥陀如来)、十一面観世音菩薩。
無量寿如来は南宮大社本地仏。
古くから霊験があると言われ、平安時代の承平天慶の乱の際、
朱雀天皇の勅令により平将門調伏祈願が行なわれている。
また、前九年の役の際、後冷泉天皇の命により安倍貞任追討祈願がおこなわれている。
境内には干支の守り本尊(守護仏)がある。
西美濃三十三霊場第十七札所。美濃七福神(大黒天)


真禅院は、近隣にある南宮大社(旧称南宮神社)と関係の深い寺院である。
南宮神社では近世末まで神仏習合の信仰が行われ、
神社内に仏堂、仏塔、僧坊などが建てられていた。
明治初年の神仏分離に伴い、三重塔、本地堂などが神社西方の現在地に移され、
朝倉山真禅院と称するようになったものである。
伝承によれば、真禅院の前身は天平11年(739年)
行基により創建された象背山宮処寺(ぞうはいさんぐうしょじ)であるとされる。
その後、延暦年間(790年頃)、勅令があり、
最澄によって南宮神社(現南宮大社)と両部習合(神仏習合)され、
神宮寺と改称したという。
宮処寺の名は『行基年譜』に見えず、創立者を行基とするのは後世の付託と思われるが、
後述のように宮処寺という寺院が奈良時代に存在したことは確認できる。
『続日本紀』天平12年(740年)12月条には、
「幸宮処寺及曳常泉」(宮処寺及び曳常泉を(聖武天皇が)訪れた)との記事がある。
これにより、天平12年の時点で今の岐阜県垂井町に「宮処寺」という寺院が存在したこと、
聖武天皇が同寺を訪れたことは史実と認められる。
垂井町内には宮処寺跡に比定される奈良時代の寺院跡があり、
岐阜県の史跡に指定されている。
ただし、この寺院跡は発掘調査未了のうちに宅地開発が進んで遺構が破壊されており、
この寺が南宮神社の神宮寺の前身であるかどうかは断定できない。
『扶桑略記』天慶3年(940年)正月24日条には「美濃国中山南神宮寺」において、
延暦寺の僧・明達が平将門調伏の修法を行ったことが見える。
これにより、平安時代には南宮神社に神宮寺が存在したことが明らかである。
神宮寺は近世末まで存続したが、前述のように明治時代初期の神仏分離に伴い廃絶した。
南宮神社内には神宮寺以外にも仏教僧の住む坊舎が複数存在したことは古絵図等からも明らかで、
真禅院はそうした僧坊の1つであった。
近世の記録(「本末分限改帳」)には、平将門の乱調伏のため、
南宮神社二ノ宮の十禅師社に社僧10名を置き、
その時建立された僧坊の1つが真禅院であるとされている。
文亀元年(1501年)、火災で焼失し、永正8年(1511年)、
美濃国守護土岐政房により再建。
慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いで南宮神社とともに焼失した。
南宮神社の再建は江戸幕府3代将軍徳川家光により実施され、
寛永19年(1642年)に落成した。
これが現存する南宮大社の社殿群である。
現存する真禅院の三重塔、本地堂もこれら社殿と一連の造営になるもので、
元来は南宮神社境内の南方に建っていた。
明治元年(1868年)、神仏分離により、南宮神社内の寺院・仏堂を統廃合し、
当時の真禅院の住職と地元の人々の手により現在地に移築した。
明治4年(1871年)までに移築が完了し、朝倉山真禅院として再出発した。
昭和57年(1982年)から昭和59年(1984年)にかけて三重の塔の修理が行われた。(昭和の大修理)
平成27年(2015年)から平成30年(2018年)にかけて本地堂の修理が行われた。(平成の大修理)
明治の移築の際に格天井の絵が不規則に並べられていたのを
今回の修理で移築前の状態に戻した。
さらに、塗装や屋根の形状、部屋の間仕切りなど調査で明らかになったものは復元や復原が行われた。



三重塔があるだけで、その一帯が魅力的な空間になる。

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歴史的な建築物に惹かれて(滋賀県・成菩提院と永明寺) [歴史的建築物]

今回は成菩提院(じょうぼだいいん)と永明寺(ようめいじ)を載せたいと思う。

撮影:OLYMPUS OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm/F3.5-5.6

(成菩提院の解説)

滋賀県米原市柏原にある成菩提院は、815年伝教大師最澄が東国に
向う途中この地に草庵を築き逗留したのに始まると伝えられている。
その後、天台宗の学問所にもなり栄え、豊臣秀吉・徳川家康からの
支援を受け、徳川家康の参謀とも言われた天海僧正が20代の
住職に就いている。天海僧正からは家康像(画)も贈られており、
17世紀半頃は最盛期を迎えている。


風化し趣深い山門になっている。

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歴史的な建築物に惹かれて(岐阜県・永保寺と正願寺) [歴史的建築物]

永保寺は庭園が有名で、国宝の観音堂も有するので、
一度撮影したいと思っていた。

撮影:OLYMPUS PEN E-PL9、LUMIX G VARIO 12-60mm
(一部、M.ZUIKO DIGITAL 45mm F1.8使用)


(永保寺の解説)

永保寺(えいほうじ)は、岐阜県多治見市虎渓山町にある臨済宗南禅寺派の寺院。
山号は虎渓山(こけいざん)。 雲水の修行道場(僧堂)である虎渓山専門道場を併設している。
美濃七福神の一つ(寿老人)。


歴史

1295年頃、鎌倉の地で夢窓疎石と元翁本元が修行し、また土岐頼貞との接点が生まれた。
1311年悟後の修行のため甲斐の龍山庵(浄居寺)に一時隠棲していた夢窓疎石は、
1312年元翁本元とともに元翁の故郷である三河の大徳寺に逗留。
1313年土岐頼貞の招きにより、頼貞の父・土岐光定(1281年4月8日没)の33回忌を
定林寺で厳修した。
その後土岐頼貞の別邸または砦があったと推察される長瀬山の麓に庵を結ぶ。
文化3年(1806年)刊の『虎渓山略縁起一人案内』によれば、
正和2年(1313年)6月18日に長瀬山の麓を目指していた夢窓一行が道に迷い、
白馬に乗った女性に道を尋ねた所、返事が無かった。
そこで夢窓は「空蝉(うつせみ)の もぬけのからか 事問えど 山路をだにも 教えざりけり」
と歌を詠んだ。
すると女性は「教ゆとも 誠の道はよもゆかじ 我をみてだに 迷うその身は」
と返歌して忽然と消え失せ、付近の補陀岩上に一寸八分の観世音菩薩像が出現した。
夢窓はこの観世音菩薩像を本尊とし、1314年に水月場(観音堂、国宝)を建立した。
当初「古溪(古渓)」と称していたが、後に中国廬山の虎渓(簡体字: 虎溪(中国語版))に因み
「虎溪山(虎渓山)」と称するようになった。
廬山虎渓の風致が当地に似ているとする記述も見られるが、夢窓が渡航した記録は無く、
むしろ鎌倉建長寺の中国僧一山一寧のもとで修行していたことにより、
当時の廬山での禅修行の風致を虎渓山に求めたものと推察される。
1317年に夢窓は京都の北山に隠棲、更に土佐へ移り、1319年には鎌倉へ、
1325年に後醍醐天皇の命により南禅寺第9世として南禅寺に住持することとなる。
一方、元翁本元は夢窓の去った虎渓の地を守り暫く留まっていたが、
1329年には南禅寺第11世として南禅寺に住持した。
元翁本元が南禅寺に住持している時、後醍醐天皇の皇子世良親王の帰依を受けていたが、
親王亡き後、後醍醐天皇が親王の御所を臨川寺とし、
元翁本元を開山として迎えることとなった。
この時点では虎渓山開山は夢窓疎石であり、臨川寺開山が元翁本元であるが、
南北朝争乱により後醍醐天皇は隠岐に流され、元翁と臨川寺は外護者を失うこととなり、
元徳3年(1331年)元翁は南禅寺を去り、翌正慶元年(1332年)に没した。
後醍醐天皇は1333年に京都に戻り、夢窓疎石を再び南禅寺の住持に迎えるとともに、
改めて臨川寺の開山とした。
これにより、当初夢窓を開山とした虎渓山永保寺は夢窓疎石を開創とし、
元翁本元を開山とするようになった。
後醍醐天皇による建武の新政は足利尊氏によりわずか2年で失敗に終わり、
光明天皇が擁立されて南北朝となり、暦応元年(1338年)に足利尊氏が征夷大将軍となる。
永保寺は暦応2年(1339年)に北朝の光明天皇勅願所とされ、
経済的基盤が確立するとともに、
開山元翁本元の門派が一流相続する独立的存在の門徒寺とされた。
永保寺の歴代は3世の果山正位以後、14世の雪庭永立(1554年没)までが
塔頭の保寿院世代と同一であり、その後320年間にわたり塔頭寺院による輪番で護持されてきた。
天保元年(1830年)、開山仏徳禅師500年遠諱の際、春応禅悦により僧堂が開かれるが、明治初めの社寺上知令により衰退した。
明治8年(1879年)永保寺独住1世として保寿院24世の蕙芳惠薫が任命され、
明治14年(1881年)開山仏徳禅師550年遠諱の際に、柏樹軒潭海玄昌を永保寺住持に迎え僧堂を再開した。これ以後、僧堂師家が永保寺住職を務めている。


境内

●観音堂(国宝)
一重裳階(もこし)付き、入母屋造檜皮葺きの仏殿。南北朝時代。
「水月場」とも称し、本尊の聖観世音菩薩坐像(毎年3月15日公開)が安置されている。
本建物は外観は禅宗様を基調としつつ、
細部には和様の要素が濃い特異な建築である。
軒裏は垂木を見せない「板軒」とするのも珍しい手法である。
●開山堂(国宝)
入母屋造檜皮葺き。南北朝時代。
永保寺開創の夢窓国師および開山仏徳禅師の頂相が安置されている。
堂内は石敷きの土間に化粧屋根裏とするなど、本格的な禅宗様の意匠になる。


観音堂(国宝)

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国の名勝「永保寺庭園 無際橋」

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歴史的な建築物に惹かれて(愛知県・長光寺、性海寺と妙興寺) [歴史的建築物]

今回は地蔵堂で有名な長光寺と多宝塔や紫陽花で有名な性海寺、
そして一宮の大寺の妙興寺の写真を載せたいと思う。


撮影:OLYMPUS PEN E-PL9、LUMIX G VARIO 12-60mm
(一部、M.ZUIKO DIGITAL 45mm F1.8使用)

(長光寺の解説)

長光寺(ちょうこうじ)は、愛知県稲沢市にある臨済宗妙心寺派の寺院。

仁寿元年(851年)小野篁が陸奥の国に下る途中、この辺りに駐杖した際、
路傍に地蔵像を安置したのが始まりと伝わる。
1161年、尾張守であった平頼盛が病気平癒のお礼に六角堂を寄進した。
1336年、足利尊氏が戦のため上洛する際に太刀を奉納して武運を祈願し、
勝利したお礼に六角堂を祈願所として定めた。
1338年に尊氏が将軍宣下を受けると、山門などを奉納して再興している。
その後、織田氏・徳川家康・尾張徳川家によって庇護された。

●重要文化財
〇地蔵堂(六角堂) - 室町時代(1510年)建立
〇鉄造地蔵菩薩立像 - 鎌倉時代、文暦□年(二年)年銘(1235年)

楼門

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重要文化財の地蔵堂

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長光寺の境内にて撮影。

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歴史的な建築物に惹かれて(岐阜県・清水寺、龍福寺と龍門寺) [歴史的建築物]

今回は岐阜県の清水寺と龍門寺の写真を載せたいと思う。

この奥に岐阜県の清水寺がある。

撮影:OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm
(一部 M.ZUIKO DIGITAL 45mm F1.8使用)


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(清水寺の解説)

清水寺(きよみずでら)は岐阜県加茂郡富加町にある臨済宗妙心寺派の寺院。
加治田城城下町の加治田山山麓に位置する。山号は白華山(はっかさん)。
本尊は十一面観音。美濃三十三観音霊場第二十六番札所である。
日本全国でも京都音羽山清水寺と同じ縁起であり、
唯一の兄弟姉妹富加町加治田白華山清水寺だけが歴史・霊地として存在している。
1200年鎮座する古刹として歴史価値が深い貴重な清水寺である。

寺所蔵の『白華山清水寺縁起』によれば、大同3年(808年)、京都東山の清水寺と同じく、
延鎮を開山、坂上田村麻呂を開基として創建されたと伝承する。
伝承によれば、延鎮は行叡居士(京都清水寺の草創に関わりのある老仙人)の
行先を求めて東の方へ、東の方へと行き、美濃の国に入ると東の山に光が見えてきた。
光を目指して進むと加治田に入り、白華山で行叡居士と再会。延鎮は霊地であると思い、
坂上田村麻呂に願い出て、寺を建造した。
これが加治田白華山清水寺であるという。
加治田の清水寺はもと真言宗に属したが、江戸時代半ばに臨済宗に改宗している。


二天門

特徴的な山門で、これが撮りたかった。

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歴史的な建築物に惹かれて(岐阜県・華厳寺) [歴史的建築物]

今回は華厳寺の写真を載せたいと思う。
美濃の古刹として華厳寺と横蔵寺は有名。

撮影:OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm

(華厳寺の解説)

華厳寺(けごんじ)は、岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積にある天台宗の寺院。
山号は谷汲山(たにぐみさん)。本尊は十一面観世音菩薩(十一面観音)、
脇侍として不動明王と毘沙門天を安置する。
西国三十三所第33番札所、満願結願の寺院で桜、
紅葉の名所としても知られ多くの観光客で賑わう。


永禄3年(1560年)成立の『谷汲山根元由来記』によると、
華厳寺は延暦17年(798年)、会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって
創建されたという。
『由来記』によれば、大口大領は都の仏師に依頼して自らの信仰する
十一面観音(十一面観世音菩薩)の像を造立した。
彼は観音像とともに会津に帰ろうとしていたが、途中、
美濃国の赤坂(現・岐阜県大垣市)で観音像が動かなくなってしまった。
赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、
大口大領は同地に草庵を建立。
延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人(ぶねんしょうにん)の
協力を得て華厳寺を建立した。
延暦20年(801年)、桓武天皇の勅願寺となり、延喜17年(917年)には
醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜。
天慶7年(944年)には朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め、
仏具・福田として一万五千石を与えたという。
「谷汲山」という山号については、寺付近の谷から油が湧き出し、
仏前の灯明用の油が汲めども尽きなかったことに由来する。
西国三十三所霊場の中興者と伝承される花山法皇は徒歩で巡幸し、
当寺を第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺)、杖、
および三首の御詠歌を奉納したと伝え、鎌倉時代には後白河法皇が
花山法皇の跡を慕って同行千有余人を従えて巡幸したという。
なお、西国三十三所巡礼について触れた最も古い史料である
『寺門高僧記』所収の「行尊伝」および「覚忠伝」では、
第三十三番の霊場は三室戸寺になっており、園城寺(三井寺)の僧・覚忠が
三十三所霊場を巡礼した応保元年(1161年)には、華厳寺は満願所ではなかった。
また、三種の御詠歌(後出)のうち、「世を照らす」の歌は作者が判明しており、
花山法皇ではなく、前出の覚忠の作歌である。
建武元年(1334年)足利氏と新田氏の戦乱が起こり、
新田氏一族堀口美濃守貞満の乱をはじめとする戦乱で
幾度となく諸堂伽藍を焼失するが、本尊ならびに脇侍等は山中に移し難を逃れた。
文明11年(1479年)、観音菩薩の夢告を受けた薩摩国鹿児島慈眼寺住職道破拾穀により、
再興されたと伝えられている。


総門をくぐると、左右にソメイヨシノの桜並木、土産物店、飲食店、
旅館などの立ち並ぶ参道が続き、距離にして約1km、徒歩10分ほどで仁王門に達する。
仁王門から本堂まではゆるやかな登りの石畳の参道となり、
右手には放生池、地蔵堂、茶所、一乗院、十王堂、羅漢堂、英霊堂、
三十三所観音堂、左手には法輪院、明王院、一切経堂、観音勢至像、本坊などがあり、
本坊の一画には大師堂、内仏客殿、庫裏が建つ。
参道突き当りの石段を上ると本堂があり、その右手に鐘楼堂、
本堂背後には阿弥陀堂、笈摺堂、子安堂、
そこからさらに石段を上った先に満願堂が建つ。
このほか、満願堂から徒歩約1時間ほどのところに奥の院がある。
山内には他に妙法ヶ滝、「菅原道真参籠の岩屋」などがある。




仁王門

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仁王門

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百度石と焼香堂

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歴史的な建築物に惹かれて(岐阜県・横蔵寺) [歴史的建築物]

今回は美濃のあたりでは有名なお寺、横蔵寺を載せたいと思う。
特に紅葉の美しさで知られており、大勢の観光客がツアーバスでやってくる。
ミイラも安置されていて、
子供のころに親に連れていかれたことを記憶している。
今回訪ねてみて、風化した建物に歴史がしみ込んでいる感じがして、
わくわくしながら撮影した。
最近アップした日龍峯寺(高澤観音)もこんな素敵なお寺は他にないなと思うが、
横蔵寺も負けてはいないなと感じた。


撮影:OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm
(一部M.ZUIKO ED 60mm F2.8 Macro使用)



(横蔵寺の解説)


横蔵寺(よこくらじ)は岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原にある天台宗寺院。
山号は両界山、本尊は薬師如来。西美濃三十三霊場第一番札所。
重要文化財を含む多数の文化財を有し、「美濃の正倉院」とも呼ばれる。
紅葉の名所でもあり秋の行楽シーズンには特に多くの参拝客が訪れる。
このシーズンに「横蔵寺もみじまつり」が開催されライトアップが行われている。
西国三十三所観音霊場の最後(33番)の札所である谷汲山華厳寺の西方、
さらに奥まった山間の小さな盆地に位置する。
平安時代 - 鎌倉時代の仏像等、多くの文化財を有する古寺であるが、
草創や沿革については史料が乏しく、
平安時代末期ころまでの寺史はほとんど不明といってよい。
寺伝によれば、横蔵寺は日本天台宗の宗祖・最澄が
自作の薬師如来を安置して創建した寺とされている。
伝承によれば、最澄は比叡山延暦寺を開創する際に、
本尊薬師如来像を自ら刻んだが、その薬師如来像を造ったのと同じ霊木から、
もう1体の薬師如来像を造った。
最澄は、その2体目の薬師如来像を
笈(おい、山伏や山林修行者が背中に背負う箱状のもの)に入れて背負いながら
諸国を旅したが、延暦22年(803年)、横蔵寺のある地まで来た時に
薬師如来像が動かなくなったので、
ここに一寺を建立して薬師如来像を祀ることにし、
地元の三和次郎大夫藤原助基が寺を建立したという(創建年は801年あるいは805年とも)。
最澄自ら、笈を背負って都から遠く離れた美濃の山奥までやって来たというのは、
史実として信じることはできないが、
当寺が延暦寺と関係の深い寺院であることを示唆しているといえよう。
なお、創建当時の横蔵寺は現在地からさらに1.5キロメートルほど
奥に入った円山の頂上付近にあり、現在地に移ったのは近世初期である。
鎌倉時代には38坊を有する大寺院だったというが、
鎌倉時代 - 室町時代の寺史も、断片的にしかわかっていない。
横蔵寺に言及した中世以前の文献としては、
鎌倉時代後期の禅僧・無住の著である仏教説話集『沙石集』に
「横倉薬師」の霊験について記しているのが挙げられる程度である。


横蔵寺三重塔(岐阜県指定重要文化財)
現存する仏像の中で、大日如来像(重要文化財)には
平安時代最末期の寿永2年(1183年)の銘があり、
同年、三重塔の本尊として仏師筑前講師により造立されたことが明らかである 。
また、金剛力士(仁王)像には、建長8年(1256年)の銘があり、
作者は鎌倉時代を代表する仏師の一人である肥後別当定慶であることがわかっている。
寺史に関する史料の乏しい中で、これらの仏像の像内銘は貴重なものである。
元亀2年(1571年)、織田信長の兵火で焼失し、
現在ある本堂、三重塔、仁王門などの主要伽藍は江戸時代の復興である。
織田信長の比叡山焼き討ちによって、延暦寺の伽藍が灰になった後、
横蔵寺の本尊薬師如来像は、「延暦寺本尊と同じ霊木から造られた、最澄自作の像」
という由緒ある像だということで延暦寺に移された。
その代わりに、洛北の御菩薩池(みぞろがいけ、現・京都市北区の深泥池)から移されたのが、
横蔵寺の現本尊である薬師如来像であるという。



仁王門前には大きな杉の木がある。

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仁王門

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歴史的な建築物に惹かれて(三重県の長楽寺・聖宝寺・東林寺) [歴史的建築物]

今回は、三重県いなべ市の長楽寺と聖宝寺と東林寺、
岐阜県大垣市上石津の唯願寺の写真を載せたいと思う。

撮影:OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm


(長楽寺の解説)

長楽寺は、白山信仰の祖・泰澄が722年狗留孫岳山頂に馬頭観音を
祀ったのが始まりと伝えられている。
1752年に現在地に再興され曹洞宗の禅寺になっている。
山間の緑豊かなお寺である。


参道の杉林

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観音堂

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歴史的な建築物に惹かれて(大垣市の明星輪寺) [歴史的建築物]

今回は、大垣市にある明星輪寺の写真を載せたいと思う。

このお寺は子供のころに行ったことがあり、

この辺りではこくぞうさんと呼ばれ、親しまれているお寺である。


撮影:OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm
(一部LEICA DG SUMMILUX 25mm/F1.4使用)


(明星輪寺の解説)

明星輪寺(みょうじょうりんじ)は、岐阜県大垣市にある真言宗の寺院である。
山号は金生山(きんしょうざん)。
通称「赤坂虚空蔵」、「虚空蔵さん」、「こくぞうさん」。日本三大虚空蔵の一つという。
本尊は虚空蔵菩薩。洞窟(岩屋)の中にある彫刻。
言い伝えによれば、役小角が彫刻したものという。

寺伝によれば、686年(朱鳥元年)、持統天皇の勅命により、役小角が開山。
2年後に建立したという。一時廃れるが、平安時代の801年(延暦20年)、空海が再興し、
真言宗に改宗。桓武天皇により保護を受けたという。
1148年(久安4年)の落雷により焼失。再建されるが、小規模となってしまう。
1609年(慶長14年)、美濃国高須藩藩主徳永寿昌の援助で再建される。
1657年(明暦3年)、大垣藩藩主戸田氏信により、大垣藩藩主戸田氏の祈祷所に指定され賑わう。
1863年(文久3年)、戸田氏彬の援助で現在の本堂が再建される。
1869年(明治2年)、神仏分離令により蔵王権現宮が金生山神社として分離独立する。

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こくざうさんと呼ばれ親しまれているだけあり、

何人かの人を見かけた。

お寺巡りをしていても、誰一人いない場合が多いのだが。


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歴史的な建築物に惹かれて(大垣市の円興寺・願證寺) [歴史的建築物]

円興寺に行く途中に撮影。

桜はもうほとんど散ってしまった。


撮影:OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm


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円興寺は紅葉で有名で、以前行ったことがあった。

鐘楼が立派だった記憶があるので、撮影しに来たのである。



(円興寺の解説)

円興寺(えんこうじ)は、岐阜県大垣市にある天台宗の寺院である。
山号は篠尾山。本尊は木造聖観音菩薩立像(国の重要文化財)。
西美濃三十三霊場第三十二札場。
かつては山頂に存在していた。旧円興寺跡地には礎石が残り、
源朝長の墓、源義朝、源義平の供養塔などが残る。
現在の円興寺には源朝長の位牌や関わる遺品がある。

寺伝によれば、790年(延暦9年)、美濃国不破郡青墓の大炊氏に懇願され、
最澄が開山したという。
1574年(天正2年)、織田信長により焼き討ちにあい、全てを焼失する。
この際本尊が勝手に動き、石の上へ難を逃れたという。
このことから、本尊を石上観音と呼ぶ。
1658年(万治元年)に再興され、現在地へ移転する。


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本堂

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