僕の写真紀行
https://scene803.blog.ss-blog.jp/
風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。
minsuke
2024-02-15T21:01:25+09:00
ja
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歴史的な建築物に惹かれて(滋賀県・菅山寺)
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-03-21
今回は菅山寺の写真を載せたいと思う。インターネットで調べていたら、滋賀県の菅山寺の山門の写真が目に留まり、森の中の廃寺を一度見てみたいと思って行ったのである。撮影:OLYMPUS OM-D E-M5、M.ZUIKO DIGITAL ED 14-150mm F4.0-5.6菅山寺の解説大箕(だいき)山中にある、真言宗豊山派の古刹。奈良時代、孝謙天皇の勅を受けた照檀上人が開山、龍頭大箕寺と称し、平安前期に菅原道真が宇多天皇の勅使として入山、3院49坊を建てて大箕山菅山寺と改名した。菅山寺は藤原時代から鎌倉時代に最も栄え、興福寺の古い記録には、僧房105末寺70余とあり、極めて大きな寺であった。天正10年(1582)の大地震により、当寺は壊滅した。この時経蔵の宋版大蔵経の収納箱約40箱も破損している。その後、黒田村(現木之本)の土豪大音氏出自の専秀が再建に努力し、江戸時代初めに堂宇を再興した。高野山で修法し当寺に帰住した専秀に帰依した石田三成から、寺領30石と山林を寄進安堵された。慶長18年(1613)、徳川家康の命で、専暁が宋より持ち帰った「宗版一切経七千余巻」を芝の増上寺へ寄進、代償として寺領50石を与えられ、家康黒印状も得、以降幕末まで継承。この経典は現在、国の重要文化財に指定されている。浅井長政、石田光成、徳川幕府の庇護もあったが、江戸時代末期より、末寺が他宗に転宗して菅山寺の維持が困難となり、彦根社寺役人に救済を願い出てはいるが、明治初期までの菅山寺はまだ相当な規模を誇っていた。駐車場から森の中に入るとじきに目に入った。いくつか要所要所にあり、このまま行けばいいと教えてくれている。10分ほど下ると、廃寺が見えてきた。本堂と経堂が見えている。これが今回一番見たかった山門の大きな木に挟まれた風情。人影のない森閑とした道を進むと、間口が2m弱の朽ちた山門と出合う。山門の両脇には巨石と見間違える、大ケヤキ(県指定)の古木2本がそびえる。菅原道真公の手植と伝える。幹周り6mを越え、樹高15m以上の巨木である。滋賀県の自然記念物に指定されていたが、写真の右側のケヤキの巨木が強風と腐食により2017(平成29年)9月に折れた。
歴史的建築物
minsuke
2024-02-15T21:01:25+09:00
インターネットで調べていたら、
滋賀県の菅山寺の山門の写真が目に留まり、
森の中の廃寺を一度見てみたいと思って行ったのである。
撮影:OLYMPUS OM-D E-M5、M.ZUIKO DIGITAL ED 14-150mm F4.0-5.6
菅山寺の解説
大箕(だいき)山中にある、真言宗豊山派の古刹。
奈良時代、孝謙天皇の勅を受けた照檀上人が開山、
龍頭大箕寺と称し、平安前期に菅原道真が宇多天皇の勅使として入山、
3院49坊を建てて大箕山菅山寺と改名した。
菅山寺は藤原時代から鎌倉時代に最も栄え、
興福寺の古い記録には、僧房105末寺70余とあり、
極めて大きな寺であった。
天正10年(1582)の大地震により、当寺は壊滅した。
この時経蔵の宋版大蔵経の収納箱約40箱も破損している。
その後、黒田村(現木之本)の土豪大音氏出自の専秀が再建に努力し、
江戸時代初めに堂宇を再興した。
高野山で修法し当寺に帰住した専秀に帰依した石田三成から、
寺領30石と山林を寄進安堵された。
慶長18年(1613)、徳川家康の命で、専暁が宋より持ち帰った
「宗版一切経七千余巻」を芝の増上寺へ寄進、
代償として寺領50石を与えられ、家康黒印状も得、以降幕末まで継承。
この経典は現在、国の重要文化財に指定されている。
浅井長政、石田光成、徳川幕府の庇護もあったが、
江戸時代末期より、末寺が他宗に転宗して菅山寺の維持が困難となり、
彦根社寺役人に救済を願い出てはいるが、
明治初期までの菅山寺はまだ相当な規模を誇っていた。
駐車場から森の中に入るとじきに目に入った。
いくつか要所要所にあり、このまま行けばいいと教えてくれている。
10分ほど下ると、廃寺が見えてきた。
本堂と経堂が見えている。
これが今回一番見たかった山門の大きな木に挟まれた風情。
人影のない森閑とした道を進むと、間口が2m弱の朽ちた山門と出合う。
山門の両脇には巨石と見間違える、大ケヤキ(県指定)の古木2本がそびえる。
菅原道真公の手植と伝える。
幹周り6mを越え、樹高15m以上の巨木である。
滋賀県の自然記念物に指定されていたが、
写真の右側のケヤキの巨木が強風と腐食により2017(平成29年)9月に折れた。
本堂
経堂
一切経を入れる殿堂で、専暁が持ち帰った一切経7千余巻が収められていたとされる。
堂内の意匠も凝っている。輪転部は、戦前までは動いていたともいわれる。
破損が無ければ、国宝級のものとも聞かれる。
慶長18年(1613)、徳川家康の命で、専暁が宋より持ち帰った
「宗版一切経七千余巻」を芝の増上寺へ寄進、代償として寺領50石
を与えられ、家康黒印状も得、以降幕末まで継承。
この経典は現在、国の重要文化財に指定されている。
本堂
本堂
梵鐘
本堂と石仏
弘法水
宝蔵庫
平安時代から鎌倉時代にかけての多数の宝物が収蔵されてきた。
今は弘善館にて保存されている。
護摩堂
護摩には供物札木を焼く外護摩と、
自身を壇として如来の智火で煩悩の薪を焼く内護摩とがあり、
ここは内護摩が行われたところ。
護摩堂
大きな倒木がいくつもあった。
朱雀池
千年の間、干天にも満水を保つ朱雀池、天満宮をひたすら守ってきた。
朱雀池は雨乞霊験あらかたとされてきた。
近江天満宮
朱雀池のまわりを進むと近江天満宮に着く。今でも参詣者は絶えない。
祭神:菅原道真
菅原道真公発祥の地として、道真が太宰府で無くなった後で建立(955年)。
道真の像を祀り、菅山寺の鎮府としたのが近江天満宮の始まり。
慶長2年(1597)石田三成から禄30石、慶長18年(1613)には、
徳川家康より禄50石を寄進されるなど有力者の崇敬を集め
現在の本殿も彦根藩主井伊家の築造によるもの。
豪壮な拝殿は、大正末期近江天満宮講が集めた資金で建てられた。
五所権現
駐車場まで戻る途中で撮影。
急こう配が続き20分ほどかかったが、
歩くことに自信がある自分でもきつかった。
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ここからは近くの別の寺
洞寿院(余呉三山)の解説
丹生川上流の菅並からさらに支流・妙理川をさかのぼった渓間にあり、
湖北の曹洞宗を代表する寺です。
室町時代前期、如仲(にょちゅう)禅師の開山で、修行の道場として
大勢の禅僧を養育し、宗派を広げました。
安土桃山年代には朱印寺となり、格式の高さを誇っていました。
鎌倉時代前期の造立銘を持つ、観音菩薩立像(国指定の重要文化財)や
大日如来像、天ぎん(てんぎん)・聞本(もんぽん)禅師の像など
寺宝は多くありますが、その一つに「龍の玉」があります。
妙理川の中ほどに並ぶ夫妻滝に棲みついて、人々を苦しめていた龍を、
開祖の如仲禅師が法力で済度すると、
ある夜龍が枕元に現れ寺院の守護となる証に、
玉を置いていったと伝えられています。
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歴史的な建築物に惹かれて(岐阜県・日龍峯寺)
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-04-25
今回は日龍峰寺の写真を載せたいと思う。本堂が清水寺の舞台と思わせるような造りである特徴的なお寺である。以前に一度訪れたことがあるが、寺に到着する直前に野猿の集団に出くわして、かなり驚いた記憶がある。それだけ人があまり住んでいない場所にある。撮影:OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm(日龍峰寺の解説)日龍峰寺(にちりゅうぶじ)は、岐阜県関市下之保にある高野山真言宗の寺院である。山号は大日山。高澤観音とも呼ばれる。また本堂が京都の清水寺本堂に似た舞台造り(懸崖造)であることから「美濃清水」との異名がある。本尊は千手観世音菩薩。美濃三十三観音霊場第一番札所(かつては第二十五番札所)。中濃八十八ヶ所第六十一番札所。 寺伝によれば、5世紀前半の仁徳天皇の時代、美濃国に日本書紀にも登場する両面宿儺(りょうめんすくな)という豪族がいた。両面宿儺はこの地方に被害を及ぼしていた龍神を退治し、龍神の住んでいたこの山に祠を建立したのが始まりと伝わる。鎌倉時代、北条政子によって再興されたと伝えられている。 室町時代、応仁の乱によって多宝塔を残し堂宇の大半を焼失した。その後、江戸時代になって現在の伽藍が整えられた。●伽藍仁王門 - 享保3年(1718年)建造。本堂 - 江戸時代前期の寛文10年(1670年)建立。岐阜県指定重要文化財。多宝塔 - 鎌倉時代後期、北条政子によって建立されたと伝えられる。重要文化財。鐘楼千本檜薬師堂金毘羅堂庫裡みたらしの霊水仁王門を撮影。
歴史的建築物
minsuke
2023-11-03T14:20:44+09:00
本堂が清水寺の舞台と思わせるような造りである特徴的なお寺である。
以前に一度訪れたことがあるが、
寺に到着する直前に野猿の集団に出くわして、かなり驚いた記憶がある。
それだけ人があまり住んでいない場所にある。
撮影:OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm
(日龍峰寺の解説)
日龍峰寺(にちりゅうぶじ)は、岐阜県関市下之保にある高野山真言宗の寺院である。
山号は大日山。高澤観音とも呼ばれる。
また本堂が京都の清水寺本堂に似た舞台造り(懸崖造)であることから
「美濃清水」との異名がある。
本尊は千手観世音菩薩。美濃三十三観音霊場第一番札所(かつては第二十五番札所)。
中濃八十八ヶ所第六十一番札所。
寺伝によれば、5世紀前半の仁徳天皇の時代、美濃国に日本書紀にも登場する
両面宿儺(りょうめんすくな)という豪族がいた。
両面宿儺はこの地方に被害を及ぼしていた龍神を退治し、
龍神の住んでいたこの山に祠を建立したのが始まりと伝わる。
鎌倉時代、北条政子によって再興されたと伝えられている。
室町時代、応仁の乱によって多宝塔を残し堂宇の大半を焼失した。
その後、江戸時代になって現在の伽藍が整えられた。
●伽藍
仁王門 - 享保3年(1718年)建造。
本堂 - 江戸時代前期の寛文10年(1670年)建立。岐阜県指定重要文化財。
多宝塔 - 鎌倉時代後期、北条政子によって建立されたと伝えられる。重要文化財。
鐘楼
千本檜
薬師堂
金毘羅堂
庫裡
みたらしの霊水
仁王門を撮影。
仁王門を反対側から撮影。
急な坂道を2~3分上ると本堂が見え始める。
籠堂(こもりどう)
本堂
千本桧
籠堂
びんずる様越しに撮影。
びんずる様
おびんずるさまは、お釈迦さまのお弟子の一人で、神通力にすぐれていたそうです。
しかし、みだりに世間の人に神通力を用いたため、
お釈迦さまの呵責(かしゃく)を受けて涅槃(ねはん)を許されず、
お釈迦さまの滅後も衆生を救い続けるとされています。
多宝塔
薬師堂
不動堂(手前)と薬師堂
鐘楼
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歴史的な建築物に惹かれて(岐阜県・日吉神社)
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-05-09
今回は日吉神社境内にある三重塔だけを載せたいと思う。いつものサイズだと三重塔の魅力が伝わらないと思ったので大きくしています。撮影:OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm日吉神社とは・・・弘仁8年(817年)、伝教大師(最澄)が東国へ天台宗の布教に東山道を通られた折、神戸の地に立ち寄られた。当地の郡司・安八太夫安次は大師の教えに帰依した。それで大師は安次の懇請に応じて影向山(ようごうさん)神護寺善学院を建て、近江坂本・日吉神の四柱の神を勧請、日吉信仰の社を創建された。日吉神社である。●重要文化財三重塔木造地蔵菩薩坐像(おもかる地蔵)木造十一面観音坐像 2躯石造狛犬(1対)(三重塔の解説)国の重要文化財指定天正13年(1587年)稲葉一鉄修造の棟札が善学院に遺っているが、それより約70年前に斎藤伊豆守利継が建立したものであろうと言われている。塔の大きさ 初重 方10.5m 軒高 4.7m 二重 方10.2m 軒高 9.02m 三重 方9.02m 軒高 13.5m 露盤下までの高さ 17.76m 相輪頂上までの高さ 24.6m 塔の構造三層塔婆・毎層三間 組物三手先 軒二重棰 初重勾欄は天井拭板 屋根檜皮葺 相輪鉄製室町時代の豪壮華麗な建築様式を伝えている。まずは広角で翼を広げたようなイメージで撮ってみる。
歴史的建築物
minsuke
2022-06-26T08:46:59+09:00
いつものサイズだと三重塔の魅力が伝わらないと思ったので
大きくしています。
撮影:OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm
日吉神社とは・・・
弘仁8年(817年)、伝教大師(最澄)が東国へ天台宗の布教に東山道を通られた折、
神戸の地に立ち寄られた。
当地の郡司・安八太夫安次は大師の教えに帰依した。
それで大師は安次の懇請に応じて影向山(ようごうさん)神護寺善学院を建て、
近江坂本・日吉神の四柱の神を勧請、日吉信仰の社を創建された。日吉神社である。
●重要文化財
三重塔
木造地蔵菩薩坐像(おもかる地蔵)
木造十一面観音坐像 2躯
石造狛犬(1対)
(三重塔の解説)
国の重要文化財指定
天正13年(1587年)稲葉一鉄修造の棟札が善学院に遺っているが、
それより約70年前に斎藤伊豆守利継が建立したものであろうと言われている。
塔の大きさ
初重 方10.5m 軒高 4.7m
二重 方10.2m 軒高 9.02m
三重 方9.02m 軒高 13.5m
露盤下までの高さ 17.76m
相輪頂上までの高さ 24.6m
塔の構造
三層塔婆・毎層三間 組物三手先 軒二重棰
初重勾欄は天井拭板 屋根檜皮葺 相輪鉄製
室町時代の豪壮華麗な建築様式を伝えている。
まずは広角で翼を広げたようなイメージで撮ってみる。
全体像を撮影。
更に見上げる角度で興味深い所を撮ってみる。
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お寺と花と木々の緑と
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-06-10
今回は性海寺と甚目寺の写真を載せたいと思う。お寺の建物の風景に段々飽きてきたので、これからは自然風景を多く取り入れて撮影したいと思っている。撮影:Nikon D7200、NIKKOR 16-85mm f/3.5-5.6G ED VR(性海寺の解説)性海寺(しょうかいじ)は、愛知県稲沢市にある真言宗智山派の寺院。本尊は善光寺式阿弥陀三尊像。 寺伝によれば、弘仁年間(810年~924年)空海によって愛染明王を本尊として創建されたと伝えられ、治承年間(1177年~1181年)阿弥陀三尊像が安置されたという。建久年間(1190年~1199年)に長谷部源政が開基となり良敏が開山となって中興されたという。その後、北条時頼・足利尊氏・織田敏定・浅野長政・松平忠吉・徳川義直の庇護を受けた。稲沢市では、境内隣の5703平方メートルを大塚性海寺歴史公園として平成4年に開園し、毎年6月1日頃から「稲沢あじさいまつり」を開催している。園内には、「伊豆の華」「カシワバアジサイ」「城ケ崎」など約90種1万株のあじさいがある。 ●重要文化財(国指定) 〇本堂 附:旧須弥壇擬宝珠4箇慶安元年(1648年)の建立。入母屋造杮葺き、方三間で、正面向拝の屋根は唐破風造とする。近世の建物だが、内部の天井、須弥壇などには中世の部材が残されている。須弥壇には弘安4年(1281年)の墨書がある。〇宝塔本堂内に安置する、円筒形の塔身に宝形屋根を架けた形式の塔婆。本尊を安置する厨子として用いられており、高さ2.6メートルの小塔であるが、「建造物」として重要文化財に指定されている。須弥壇と同じく弘安4年(1281年)頃の建立と推定される。〇多宝塔 - 室町時代〇木製漆塗彩色金銅種子装五輪塔(性海双円塔) 附:塔内納入品一括(明細は後出)高さ48.7センチメートルの五輪塔。色漆と顔料で五色に彩色し、その上に金銅製の種子(梵字)を貼り付ける。解体修理に伴い、内部から能作生珠(のうさしょうしゅ)などの納入品が発見され、納入文書の記載から塔は弘安8年(1283年)の作と判明した。
歴史的建築物
minsuke
2022-05-08T11:31:03+09:00
お寺の建物の風景に段々飽きてきたので、
これからは自然風景を多く取り入れて撮影したいと思っている。
撮影:Nikon D7200、NIKKOR 16-85mm f/3.5-5.6G ED VR
(性海寺の解説)
性海寺(しょうかいじ)は、愛知県稲沢市にある真言宗智山派の寺院。
本尊は善光寺式阿弥陀三尊像。
寺伝によれば、弘仁年間(810年~924年)空海によって愛染明王を本尊として
創建されたと伝えられ、治承年間(1177年~1181年)阿弥陀三尊像が安置されたという。
建久年間(1190年~1199年)に長谷部源政が開基となり良敏が開山となって中興されたという。
その後、北条時頼・足利尊氏・織田敏定・浅野長政・松平忠吉・徳川義直の庇護を受けた。
稲沢市では、境内隣の5703平方メートルを大塚性海寺歴史公園として平成4年に開園し、
毎年6月1日頃から「稲沢あじさいまつり」を開催している。
園内には、「伊豆の華」「カシワバアジサイ」「城ケ崎」など約90種1万株のあじさいがある。
●重要文化財(国指定)
〇本堂 附:旧須弥壇擬宝珠4箇
慶安元年(1648年)の建立。入母屋造杮葺き、方三間で、
正面向拝の屋根は唐破風造とする。
近世の建物だが、内部の天井、須弥壇などには中世の部材が残されている。
須弥壇には弘安4年(1281年)の墨書がある。
〇宝塔
本堂内に安置する、円筒形の塔身に宝形屋根を架けた形式の塔婆。
本尊を安置する厨子として用いられており、高さ2.6メートルの小塔であるが、
「建造物」として重要文化財に指定されている。
須弥壇と同じく弘安4年(1281年)頃の建立と推定される。
〇多宝塔 - 室町時代
〇木製漆塗彩色金銅種子装五輪塔(性海双円塔) 附:塔内納入品一括(明細は後出)
高さ48.7センチメートルの五輪塔。色漆と顔料で五色に彩色し、
その上に金銅製の種子(梵字)を貼り付ける。解体修理に伴い、
内部から能作生珠(のうさしょうしゅ)などの納入品が発見され、
納入文書の記載から塔は弘安8年(1283年)の作と判明した。
あじさいと多宝塔
多宝塔
重要文化財指定ではない、比較的新しい方の本堂を撮影。
鐘楼の柱越しに多宝塔を撮影。
この多宝塔、2度目の撮影である。
一度目の撮影ではイメージ通りに撮れなかった。
見たイメージのままで写っていなかったのである。
それで今回は何とか見たイメージのままに撮りたくて、
どの角度から撮れば美しいのか、どう切り取れば迫力が伝わるのか、
いろいろ試行錯誤してきたのだった。
もう一度機会があるときに挑戦かなというのが今回の結果である。(-_-;)
昔は見たイメージの方がいつも良くて、帰宅して画像チェックしては
ショックを受けることが多かった。
今では逆に良く撮れてるやんと思うことも多々あり、
多宝塔もすんなり満足できるように撮れていると思っていた。
しかしこの多宝塔、ちょっと他の多宝塔と違って、
何だか難しいと感じている。
これで性海寺を後にした。
ここからは甚目寺にて撮影。
甚目寺(じもくじ)は、愛知県あま市(旧・海部郡甚目寺町)にある
真言宗智山派の寺院である。山号は鳳凰山。
鎮守として、式内社の漆部神社(ぬりべじんじゃ、元、八大明神社)があったが、
神仏分離令の後、境内を分けた。
所在していた甚目寺町の名は、当寺によっている。
通称「甚目寺観音」で、正式名称より通称で呼ばれることが多い。
本尊は聖観音。高さ一尺一寸五分の秘仏であり、
本堂に安置される十一面観音像(50年に1回開帳の秘仏)の胎内仏である。
東海三十六不動尊霊場第五番札所。尾張三十三観音第十六番札所。
尾張四観音の一つである。
伝承によれば、推古天皇5年(597年)、
伊勢国の漁師である甚目龍麿(甚目龍麻呂、はだめたつまろ)が漁をしていたところ、
当時海であったこの地付近で観音像が網にかかり、
その観音像を近くの砂浜に堂を建て安置したのが始まりという。
この観音像は、敏達天皇14年(585年)に、物部守屋、中臣勝海の手によって
海に投げられた3体の仏像のうち1体(聖観音)といわれている。
残りの2体のうち、阿弥陀如来は善光寺、勢至菩薩は安楽寺(太宰府天満宮)にあるという。
龍麻呂は、自らの氏をもって「はだめでら」と名づけた寺堂をたてたが、
これは、「波陀米泥良」と書いた。
「甚目寺」と書くようになったのは、中世からであるらしい。
言い伝えでは、創建の経緯は以上の通りだが、
実際、その歴史は奈良時代以前に遡ることができる、
という仏教考古学者である石田茂作の研究もある。
天智天皇が病気になったとき、甚目寺で祈祷したところ、快癒したという。
このことから、甚目寺は、勅願寺となった。
鎌倉時代には1山500坊、約3000人の僧がいたと伝わる。
戦国時代には、織田信長や徳川家康の保護を受けて繁栄した。
その他、豊臣秀吉から160石、徳川義直から300石の寄進があった。
沿革[編集]
597年(推古天皇5年) - 創建。
679年(天武天皇7年) - 寺堂が整えられ、鳳凰山の山号を受けた。
853年(仁寿3年)8月8日 - 工事で堂宇を建立するが、一時衰退した。
1103年(康和5年) - 藤原連長や僧智能、大江重房らの力によって再興された。
1124年(天治元年) - 地震で被害を受ける。
1126年(大治元年) - 大江為道とその女、長谷部氏が、復興につくした。
1196年(建久7年) - 源頼朝の命により、南大門の再建が行われる。
1201年(建仁元年) - 聖観上人が勧進、再興した。
1586年(天正13年) - 天正地震による被害を受ける。これを復興したとき、大和国長谷寺の伽藍をまねた、という。
このとき、本堂を再建し、仁王門の大規模な修繕がなされた。
1627年(寛永4年) - 三重塔の再建が行われる。
1634年(寛永11年) - 東門の再建が行われる。
1644年 (正保年間) - 仁王門の修理が行われる。
1873年(明治6年)7月19日 - 本堂が全焼するなどの被害を出した火災が起こる。
1875年(明治8年) - 仮の本堂を建築した。
1891年(明治24年) - 濃尾地震による造営物の倒壊、破損があった。
1992年(平成4年) - 本堂が再建された。
甚目寺と言えば、三重塔が目を引く。
六角堂
釈迦堂の背後の立派な木を撮影。
これで甚目寺を後にした。
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宇治平等院鳳凰堂
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-12-17
今回は宇治平等院鳳凰堂の写真を載せたいと思う。2009年5月に撮影したものだが、画像修正をして載せている。最近のソフトは少々ピントが甘い写真でも、シャープネスをかけると見事に変化させてくれる。それで昔の写真をいじってみたくなったのである。宇治平等院だが、角度を少しずつ変えて何枚も撮ってみた。宇治平等院は京都奈良の神社仏閣の中で特にお気に入りの建物で、美しいなと思う。撮影:NIKON D300 この橋を渡ると平等院入り口はすぐ近く。
歴史的建築物
minsuke
2022-03-03T22:17:23+09:00
2009年5月に撮影したものだが、画像修正をして載せている。
最近のソフトは少々ピントが甘い写真でも、
シャープネスをかけると見事に変化させてくれる。
それで昔の写真をいじってみたくなったのである。
宇治平等院だが、角度を少しずつ変えて何枚も撮ってみた。
宇治平等院は京都奈良の神社仏閣の中で特にお気に入りの建物で、
美しいなと思う。
撮影:NIKON D300
この橋を渡ると平等院入り口はすぐ近く。
ここまで一通り撮影すると修学旅行生がどっと入ってきた。
大体撮り終えた後だったので満足して平等院を後にした。
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京都の世界遺産巡り
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-12-19
今回は、京都の有名な世界遺産をいくつか載せたいと思う。前々回の記事、平等院鳳凰堂の続きで撮影しに行っている。宇治平等院鳳凰堂撮影:NIKON D300まずは金閣寺から。金箔を貼り替えたばかりだったようで、輝きがすごかった。(金閣寺の傾きを修正してみました。まだあるかもしれません。金閣寺ほど傾きが分かりにくい被写体は他にないと思っているのは僕だけでしょうか?)
京都
minsuke
2020-12-19T20:35:10+09:00
前々回の記事、平等院鳳凰堂の続きで撮影しに行っている。
宇治平等院鳳凰堂
撮影:NIKON D300
まずは金閣寺から。
金箔を貼り替えたばかりだったようで、輝きがすごかった。
(金閣寺の傾きを修正してみました。
まだあるかもしれません。
金閣寺ほど傾きが分かりにくい被写体は他にないと思っているのは
僕だけでしょうか?)
龍安寺の石庭を観に行った。
仁和寺を撮影している。
仁和寺五重塔
今宮神社を撮影。
今宮神社参道には、あぶり餅が食べられる店が軒を連ねる。
かざりやではないが、あぶり餅を食べに店に入った。
タイミングを計って、さっと撮ってみた。
おばあちゃんの手がいいなと思った。
これはまた別の店。
次に清水寺に向かった。
その参道の店。
清水寺
次回の記事より 僕の写真紀行2 に移行します。
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山中にある美しい摩崖仏(狛坂摩崖仏)
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-12-18-1
白洲正子さんの「かくれ里」に、狛坂磨崖仏が紹介されており、その摩崖仏を一度実際に見てみたいと思い、2009年9月に撮影したものを載せたいと思う。前回同様に過去の写真を修整するのに凝っている。シャープネスをかけると見事に変化して、ちょっと見せられないなと思っていた写真がそうでなくなる様が面白くて、しばらく過去の写真から載せることになると思います。撮影:LUMIX DMC-G1 摩崖仏を見る前に金勝寺(こんしょうじ)に向かった。その近くの山里の景色を撮っている。廃寺の金勝寺(こんしょうじ)の山門が見え始めた。
滋賀県
minsuke
2020-12-18T17:45:19+09:00
その摩崖仏を一度実際に見てみたいと思い、
2009年9月に撮影したものを載せたいと思う。
前回同様に過去の写真を修整するのに凝っている。
シャープネスをかけると見事に変化して、
ちょっと見せられないなと思っていた写真がそうでなくなる様が面白くて、
しばらく過去の写真から載せることになると思います。
撮影:LUMIX DMC-G1
摩崖仏を見る前に金勝寺(こんしょうじ)に向かった。
その近くの山里の景色を撮っている。
廃寺の金勝寺(こんしょうじ)の山門が見え始めた。
廃寺の金勝寺(こんしょうじ)は林の中にある。
本堂
まだ奥に寺の建物があるようだが、これで後にした。
いよいよ摩崖仏を見るために金勝山に入った。
上ったり下ったりのハイキングコースだった。
色々なものが見れて楽しい。
重ね岩
45分ほど歩くと、いよいよ摩崖仏が現れる。
これが白洲正子さんが紹介されていた「山中にある美しい摩崖仏」だ。
結構大きくて、確かに美しいと思った。
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九頭竜川の紅葉
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-12-18
今回は九頭竜湖から温見峠の紅葉の写真を載せたいと思う。前回と同じく2009年の撮影である。画像修正をかけるとねむくなっている写真でも、撮影したときのイメージになるので、それが面白くて今盛んにいじっている。今回載せている紅葉は、タイミングが良かったのでかなり色づきがいい。撮影:NIKON D300まずは九頭竜湖から。
福井県・紅葉
minsuke
2020-12-18T00:07:56+09:00
前回と同じく2009年の撮影である。
画像修正をかけるとねむくなっている写真でも、
撮影したときのイメージになるので、
それが面白くて今盛んにいじっている。
今回載せている紅葉は、タイミングが良かったので
かなり色づきがいい。
撮影:NIKON D300
まずは九頭竜湖から。
望遠レンズはD200に付けていたので、
カメラが時々入れ替わります。
撮影:NIKON D200
撮影:NIKON D300
撮影:NIKON D200
国道(酷道)157号線を岐阜市に向けて走っている。
撮影:NIKON D300
温見峠近く
撮影:NIKON D200
撮影:NIKON D300
温見峠を走行中。
時々車を停めては撮影するのだが、面倒だなと思っている自分がいることを否定できない。
好きじゃないとやれないなと思う。
温見峠は一番高いところで標高が1000mほどあるので、紅葉は終わっている。
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養老の滝・紅葉
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-11-30
今回は養老の滝の紅葉を載せたいと思う。前回303号線を走ってみて、紅葉が意外に早く終わっていることを知らされ、養老の滝も多分紅葉が残っていないだろうと覚悟して足を運んだ。思いの外、紅葉している木が残っていたので、来て良かったなと内心思いながら撮影した。撮影:Canon EOS M5、Canon EF-S18-135㎜ F3.5-5.6 IS USM
岐阜県・紅葉
minsuke
2020-12-01T07:48:34+09:00
前回303号線を走ってみて、紅葉が意外に早く終わっていることを知らされ、
養老の滝も多分紅葉が残っていないだろうと覚悟して足を運んだ。
思いの外、紅葉している木が残っていたので、
来て良かったなと内心思いながら撮影した。
撮影:Canon EOS M5、Canon EF-S18-135㎜ F3.5-5.6 IS USM
紅葉の最盛期は過ぎていることとコロナの影響で、ほとんど観光客はいなかった。
20分ほど坂道を上っていくと、養老の滝が見えてくる。
ちょっと急いだので、息が切れ切れであった。
距離は短いが、かなりきつい坂ではある。
帰りは裏道で戻った。
振り返って撮影。
帰りは下るばかりだ。
滝から駐車場に戻る途中に養老神社がある。
境内に巨大な杉の木が何本も生えている。
養老神社はなかなか雰囲気がある。
滝への道には何軒も土産物売り場がある。
昔は観光客でごったがえししていた。
滝の近くには食堂もあって、味噌おでんを食べた記憶もある。
今は廃墟になっている。
駐車場すぐそばにある養老寺
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横蔵寺と303号線の冬支度
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-11-30-1
今回は横蔵寺と303号線の風景を載せたいと思う。横蔵寺も303号線から少し入ったところにある。横蔵寺は紅葉で有名であるが、行った時にはもう紅葉は残っていなかった。横蔵寺を後にして、303号線を走り、滋賀県に向かい、余呉湖を撮影して帰宅した。その過程で撮影した風景を載せている。撮影:Canon EOS M5、Canon EF-S15-85mm F3.5-5.6 IS USM 紅葉の盛りだと、この赤い橋との組み合わせが人気のショットになっている。紅葉はすっかり終わっていて、とても残念であった。横蔵寺山門
滋賀県・紅葉
minsuke
2020-11-30T15:57:09+09:00
横蔵寺も303号線から少し入ったところにある。
横蔵寺は紅葉で有名であるが、
行った時にはもう紅葉は残っていなかった。
横蔵寺を後にして、303号線を走り、滋賀県に向かい、
余呉湖を撮影して帰宅した。
その過程で撮影した風景を載せている。
撮影:Canon EOS M5、Canon EF-S15-85mm F3.5-5.6 IS USM
紅葉の盛りだと、この赤い橋との組み合わせが人気のショットになっている。
紅葉はすっかり終わっていて、とても残念であった。
横蔵寺山門
横蔵寺三重塔
焼香堂と山門
本堂
観音堂
本堂
横蔵寺を後にして、303号線を滋賀県の方向に走った。
303号線沿いにある集落に寄り道しながら撮影。
お寺に向かった。
本堂
雪囲いがしてある。
この辺りは年によってはかなり降るのだろう。
本堂
本堂
集落の民家
お寺の見える風景は趣き深い。
別のお寺に寄ってみた。
お寺や神社の境内は公園になっていることがよくある。
更に滋賀方向に走った。
余呉湖に近い杉野の集落の神社を撮影。
熊が背中を見せて走り去ったのを目にして、
ちょっと怖くなった。
民家から離れて奥に入り込まないように散策した。
余呉湖に着いた。
余呉湖の風景。
ここも紅葉はすでに遅かった。
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ある公園の秋風景
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-11-27
11月の半ばに撮影。天気が良く、青空が広がっていた。撮影:Canon EOS M5、EF50mm F1.8 STM空が気持ちよかったので、撮影。茎の長い雑草は時々撮影する。草むら感が好きだ。公園の近くに川がある。
散歩
minsuke
2020-11-27T20:54:26+09:00
天気が良く、青空が広がっていた。
撮影:Canon EOS M5、EF50mm F1.8 STM
空が気持ちよかったので、撮影。
茎の長い雑草は時々撮影する。
草むら感が好きだ。
公園の近くに川がある。
10日ほどして同じ公園を撮影。
色づきが変わっていた。
秋は変化が速い。
撮影:Canon EOS M5、Canon EF-S55-250mm F4-5.6 IS STM
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散歩写真(ある神社と池)
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-10-26
今回は散歩写真を載せたいと思う。7年ほど前に発売されたコンデジで撮ったものである。当時はとても人気があり、買おうか迷っているうちに時期を逸して買えなかったが、今年の夏ごろにAmazonでほとんど新品に近いものを手に入れ、何気に近場で試し撮りをしていた。とてもシャープに写り、コンデジとしてはとてもいいカメラだなと思う。昔は、各社いろいろなコンデジを作っていて面白かった。画質にこだわったコンデジでも、今みたいに手を出しにくい価格ではなかったし。(一部はCanon EOS M5、Canon EF-S15-85mm F3.5-5.6 IS USM )最近は忙しくて、どこかに行くということはなかなか出来ないので、近くの、雰囲気のありそうな場所を散歩して撮影している。神社の脇を抜けて、池の方へ向かった。
大垣
minsuke
2020-10-26T22:54:27+09:00
7年ほど前に発売されたコンデジで撮ったものである。
当時はとても人気があり、買おうか迷っているうちに時期を逸して買えなかったが、
今年の夏ごろにAmazonでほとんど新品に近いものを手に入れ、
何気に近場で試し撮りをしていた。
とてもシャープに写り、コンデジとしてはとてもいいカメラだなと思う。
昔は、各社いろいろなコンデジを作っていて面白かった。
画質にこだわったコンデジでも、今みたいに手を出しにくい価格ではなかったし。
(一部はCanon EOS M5、Canon EF-S15-85mm F3.5-5.6 IS USM )
最近は忙しくて、どこかに行くということはなかなか出来ないので、
近くの、雰囲気のありそうな場所を散歩して撮影している。
神社の脇を抜けて、池の方へ向かった。
この先に池がある。
(撮影下:Canon EOS M5、Canon EF-S15-85mm F3.5-5.6 IS USM)
この池は結構ヘラブナが釣れるようで、
写真を撮っている間に2匹ほど釣り上げている人がいた。
(撮影下:Canon EOS M5、Canon EF-S15-85mm F3.5-5.6 IS USM)
階段の写真が好きで、昔は地下道の階段をよく撮っていた。
(撮影下:Canon EOS M5、Canon EF-S15-85mm F3.5-5.6 IS USM)
駐車した場所である神社に戻ってきた。
最近は日が沈むのが早く、もう5時にはこんな感じだ。
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秋の風景(彼岸花)
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-10-09
10年ほど前に撮影した彼岸花の写真があるので、今回はそれを載せたいと思います。撮影:PENTAX K-5、TAMRON AF90mm F2.8 Di MACRO神社にも彼岸花はよく咲いている。
大垣
minsuke
2020-10-09T22:42:29+09:00
今回はそれを載せたいと思います。
撮影:PENTAX K-5、TAMRON AF90mm F2.8 Di MACRO
神社にも彼岸花はよく咲いている。
堤防を歩いて撮影した。
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彼岸花、雨に濡れて
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-10-08
今年は駆け込みで昨日からヒガンバナを撮影しています。もう枯れた彼岸花が多くて全体的に撮ると面白くないので、雫をまとった彼岸花を撮ってみました。場所は、大垣の曽根城跡周辺です。撮影:Canon EOS M5、Canon EF50mm F2.5 マクロ
大垣
minsuke
2020-10-08T13:45:02+09:00
もう枯れた彼岸花が多くて全体的に撮ると面白くないので、
雫をまとった彼岸花を撮ってみました。
場所は、大垣の曽根城跡周辺です。
撮影:Canon EOS M5、Canon EF50mm F2.5 マクロ
雨が降っていたので、長靴で草むらに入り込んでいた。
そうでないと、靴下が濡れて気持ち悪かっただろうと思う。
大垣の辺りは柿の木が多く、
子供のころは、木に登っては食べていました。
自分の家にもミカンの木があり、正月過ぎごろに食べると、
酸味と甘みのバランスがちょうどよくなり、
極上のミカンが食べられました。
今はないですが。
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彼岸花終わり間近で(曽根城公園周辺)&猫
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-10-07
最近忙しいので、今年は彼岸花の撮影はしないでおこうと思っていたが、ブログで素晴らしい彼岸花の写真を見て刺激され、遅いかなと思いつつ、大垣の曽根城跡周辺の彼岸花を撮ってきたので載せたいと思う。撮影:Canon EOS M5、Canon EF-S55-250mm F4-5.6 IS STM自分はフルサイズは持っていないが、こういうのを撮るときはフルサイズで大きくぼかすと魅力的になるなと思う。
大垣
minsuke
2020-10-07T16:14:26+09:00
ブログで素晴らしい彼岸花の写真を見て刺激され、
遅いかなと思いつつ、大垣の曽根城跡周辺の彼岸花を撮ってきたので
載せたいと思う。
撮影:Canon EOS M5、Canon EF-S55-250mm F4-5.6 IS STM
自分はフルサイズは持っていないが、
こういうのを撮るときはフルサイズで大きくぼかすと魅力的になるなと思う。
彼岸花の茎の部分が綺麗だなと思う。
黒い幹に真っ赤な彼岸花はいい組み合わせだなと思う。
茎がいい色だなと思う。
猫を4匹飼っていて、今回は3匹を紹介します。
モモです。
モモとユキです。
ともに2歳半ぐらい。
兄弟でもらったのですが、
性格はずいぶん違います。
モモは甘えっ子で、とにかくすり寄ってきます。
ユキはそれほど甘えるということはなく、一匹で過ごすのが好きで、
寒くなければ和室の2枚重ねの座布団の上で日がな一日過ごします。
一番下はハナで、4歳半ぐらい。
ハナは大垣公園で鳴いているのを見つけ、可愛かったので拾って来た猫で、
その時は車ではなく自転車だったので、
リュックに入れて連れ帰りました。
気の強い猫で、怒ると人間に向かってきます。
最初はおとなしいふりをして、こんな狂暴なんだと嫁さんは驚いたのですが、
僕は人間に向かってこれる、その気の強さというか、気の大きさに感心して、
猫ながら尊敬の念さえ抱きました。
そんな面もありますが、とても人懐っこく、疲れ切るまで人間のそばにいてくれます。
3段ベッドになるので、可愛いです。
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揖斐川町の古刹
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-09-29
今はなかなか撮影に行けなくてブログの更新もままなりません。しかし、今回はカメラを購入したので久しぶりに撮影してきました。なので、載せたいと思います。しばらくはたまに更新するだけになりますが、以前のようにお付き合いくだされば光栄です。今回購入したカメラは、2016年に発売されたカメラで、決して新しいカメラではないのですが、自分にとって初めてのキャノン機になります。キャノンのカメラはずんぐりむっくりな感じがして、どうも好きになれず、フィルム時代から敬遠してきました。ところが、M5を見た時、結構四角張ってるなと思い気に入り、キャノンのカメラってどんな感じなのかなと思い、無性に使ってみたくなりました。撮影:Canon EOS M5、SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC MACRO OS HSM岐阜県揖斐川町には古刹が2つもあります。まずは横蔵寺で撮影しています。(横蔵寺の解説)横蔵寺(よこくらじ)は岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原にある天台宗寺院。山号は両界山、本尊は薬師如来。西美濃三十三霊場第一番札所。重要文化財を含む多数の文化財を有し、「美濃の正倉院」とも呼ばれる。紅葉の名所でもあり秋の行楽シーズンには特に多くの参拝客が訪れる。このシーズンに「横蔵寺もみじまつり」が開催されライトアップが行われている。 西国三十三所観音霊場の最後(33番)の札所である谷汲山華厳寺の西方、さらに奥まった山間の小さな盆地に位置する。平安時代 - 鎌倉時代の仏像等、多くの文化財を有する古寺であるが、草創や沿革については史料が乏しく、平安時代末期ころまでの寺史はほとんど不明といってよい。寺伝によれば、横蔵寺は日本天台宗の宗祖・最澄が自作の薬師如来を安置して創建した寺とされている。伝承によれば、最澄は比叡山延暦寺を開創する際に、本尊薬師如来像を自ら刻んだが、その薬師如来像を造ったのと同じ霊木から、もう1体の薬師如来像を造った。最澄は、その2体目の薬師如来像を笈(おい、山伏や山林修行者が背中に背負う箱状のもの)に入れて背負いながら諸国を旅したが、延暦22年(803年)、横蔵寺のある地まで来た時に薬師如来像が動かなくなったので、ここに一寺を建立して薬師如来像を祀ることにし、地元の三和次郎大夫藤原助基が寺を建立したという(創建年は801年あるいは805年とも)。最澄自ら、笈を背負って都から遠く離れた美濃の山奥までやって来たというのは、史実..
歴史的建築物
minsuke
2020-09-29T21:22:01+09:00
しかし、今回はカメラを購入したので久しぶりに撮影してきました。
なので、載せたいと思います。
しばらくはたまに更新するだけになりますが、
以前のようにお付き合いくだされば光栄です。
今回購入したカメラは、2016年に発売されたカメラで、
決して新しいカメラではないのですが、
自分にとって初めてのキャノン機になります。
キャノンのカメラはずんぐりむっくりな感じがして、
どうも好きになれず、フィルム時代から敬遠してきました。
ところが、M5を見た時、結構四角張ってるなと思い気に入り、
キャノンのカメラってどんな感じなのかなと思い、
無性に使ってみたくなりました。
撮影:Canon EOS M5、SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC MACRO OS HSM
岐阜県揖斐川町には古刹が2つもあります。
まずは横蔵寺で撮影しています。
(横蔵寺の解説)
横蔵寺(よこくらじ)は岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原にある天台宗寺院。
山号は両界山、本尊は薬師如来。西美濃三十三霊場第一番札所。
重要文化財を含む多数の文化財を有し、「美濃の正倉院」とも呼ばれる。
紅葉の名所でもあり秋の行楽シーズンには特に多くの参拝客が訪れる。
このシーズンに「横蔵寺もみじまつり」が開催されライトアップが行われている。
西国三十三所観音霊場の最後(33番)の札所である谷汲山華厳寺の西方、
さらに奥まった山間の小さな盆地に位置する。
平安時代 - 鎌倉時代の仏像等、多くの文化財を有する古寺であるが、
草創や沿革については史料が乏しく、
平安時代末期ころまでの寺史はほとんど不明といってよい。
寺伝によれば、横蔵寺は日本天台宗の宗祖・最澄が
自作の薬師如来を安置して創建した寺とされている。
伝承によれば、最澄は比叡山延暦寺を開創する際に、
本尊薬師如来像を自ら刻んだが、その薬師如来像を造ったのと同じ霊木から、
もう1体の薬師如来像を造った。
最澄は、その2体目の薬師如来像を
笈(おい、山伏や山林修行者が背中に背負う箱状のもの)に入れて背負いながら
諸国を旅したが、延暦22年(803年)、横蔵寺のある地まで来た時に
薬師如来像が動かなくなったので、
ここに一寺を建立して薬師如来像を祀ることにし、
地元の三和次郎大夫藤原助基が寺を建立したという(創建年は801年あるいは805年とも)。
最澄自ら、笈を背負って都から遠く離れた美濃の山奥までやって来たというのは、
史実として信じることはできないが、
当寺が延暦寺と関係の深い寺院であることを示唆しているといえよう。
なお、創建当時の横蔵寺は現在地からさらに1.5キロメートルほど
奥に入った円山の頂上付近にあり、現在地に移ったのは近世初期である。
鎌倉時代には38坊を有する大寺院だったというが、
鎌倉時代 - 室町時代の寺史も、断片的にしかわかっていない。
横蔵寺に言及した中世以前の文献としては、
鎌倉時代後期の禅僧・無住の著である仏教説話集『沙石集』に
「横倉薬師」の霊験について記しているのが挙げられる程度である。
横蔵寺三重塔(岐阜県指定重要文化財)
現存する仏像の中で、大日如来像(重要文化財)には
平安時代最末期の寿永2年(1183年)の銘があり、
同年、三重塔の本尊として仏師筑前講師により造立されたことが明らかである 。
また、金剛力士(仁王)像には、建長8年(1256年)の銘があり、
作者は鎌倉時代を代表する仏師の一人である肥後別当定慶であることがわかっている。
寺史に関する史料の乏しい中で、これらの仏像の像内銘は貴重なものである。
元亀2年(1571年)、織田信長の兵火で焼失し、
現在ある本堂、三重塔、仁王門などの主要伽藍は江戸時代の復興である。
織田信長の比叡山焼き討ちによって、延暦寺の伽藍が灰になった後、
横蔵寺の本尊薬師如来像は、「延暦寺本尊と同じ霊木から造られた、最澄自作の像」
という由緒ある像だということで延暦寺に移された。
その代わりに、洛北の御菩薩池(みぞろがいけ、現・京都市北区の深泥池)から移されたのが、
横蔵寺の現本尊である薬師如来像であるという。
山門を撮影。
改修工事がなされていて、ビニールシートなど写らないよう角度を考えては撮影しています。
山門をくぐると三重塔が見えてくる。
このシグマのレンズは逆光耐性が強いようです。
ルミックス G VARIO 12-60mm/F3.5-5.6で撮影したときは、
光が少しでも入ろうものなら、過剰な反応を起こして、
画質を低下させていました。
時代を超えてきた、歴史がしみついた建物です。
観音堂
本堂
今はちょうど彼岸花が咲く時期ですが、
オレンジ色の彼岸花が本堂脇に咲いていました。
珍しい色だなと思い撮影しました。
これで横蔵寺を後にしました。
次に華厳寺に行きました。
こちらはいつ行っても、ちらほらと参拝客がいます。
他の寺なら一人も会わないことが多いんですが。
(華厳寺の解説)
華厳寺(けごんじ)は、岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積にある天台宗の寺院。
山号は谷汲山(たにぐみさん)。本尊は十一面観世音菩薩(十一面観音)、
脇侍として不動明王と毘沙門天を安置する。
西国三十三所第33番札所、満願結願の寺院で桜、
紅葉の名所としても知られ多くの観光客で賑わう。
永禄3年(1560年)成立の『谷汲山根元由来記』によると、
華厳寺は延暦17年(798年)、会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって
創建されたという。
『由来記』によれば、大口大領は都の仏師に依頼して自らの信仰する
十一面観音(十一面観世音菩薩)の像を造立した。
彼は観音像とともに会津に帰ろうとしていたが、途中、
美濃国の赤坂(現・岐阜県大垣市)で観音像が動かなくなってしまった。
赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、
大口大領は同地に草庵を建立。
延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人(ぶねんしょうにん)の
協力を得て華厳寺を建立した。
延暦20年(801年)、桓武天皇の勅願寺となり、延喜17年(917年)には
醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜。
天慶7年(944年)には朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め、
仏具・福田として一万五千石を与えたという。
「谷汲山」という山号については、寺付近の谷から油が湧き出し、
仏前の灯明用の油が汲めども尽きなかったことに由来する。
西国三十三所霊場の中興者と伝承される花山法皇は徒歩で巡幸し、
当寺を第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺)、杖、
および三首の御詠歌を奉納したと伝え、鎌倉時代には後白河法皇が
花山法皇の跡を慕って同行千有余人を従えて巡幸したという。
なお、西国三十三所巡礼について触れた最も古い史料である
『寺門高僧記』所収の「行尊伝」および「覚忠伝」では、
第三十三番の霊場は三室戸寺になっており、園城寺(三井寺)の僧・覚忠が
三十三所霊場を巡礼した応保元年(1161年)には、華厳寺は満願所ではなかった。
また、三種の御詠歌(後出)のうち、「世を照らす」の歌は作者が判明しており、
花山法皇ではなく、前出の覚忠の作歌である。
建武元年(1334年)足利氏と新田氏の戦乱が起こり、
新田氏一族堀口美濃守貞満の乱をはじめとする戦乱で
幾度となく諸堂伽藍を焼失するが、本尊ならびに脇侍等は山中に移し難を逃れた。
文明11年(1479年)、観音菩薩の夢告を受けた薩摩国鹿児島慈眼寺住職道破拾穀により、
再興されたと伝えられている。
総門をくぐると、左右にソメイヨシノの桜並木、土産物店、飲食店、
旅館などの立ち並ぶ参道が続き、距離にして約1km、徒歩10分ほどで仁王門に達する。
仁王門から本堂まではゆるやかな登りの石畳の参道となり、
右手には放生池、地蔵堂、茶所、一乗院、十王堂、羅漢堂、英霊堂、
三十三所観音堂、左手には法輪院、明王院、一切経堂、観音勢至像、本坊などがあり、
本坊の一画には大師堂、内仏客殿、庫裏が建つ。
参道突き当りの石段を上ると本堂があり、その右手に鐘楼堂、
本堂背後には阿弥陀堂、笈摺堂、子安堂、
そこからさらに石段を上った先に満願堂が建つ。
このほか、満願堂から徒歩約1時間ほどのところに奥の院がある。
山内には他に妙法ヶ滝、「菅原道真参籠の岩屋」などがある。
明王院
百度石と焼香堂
経堂
いろいろな堂宇があります。
お寺ワールドが広がっています。
本門
本門と経堂
向かって右端にパイロンがあったので、
窮屈になっている。
元三大師堂
内仏客殿と庫裡
英霊堂
本堂
本堂
鐘楼堂
満願堂
本堂の屋根が見えています。
納骨堂
満願堂
満願堂
本堂
本門
経堂
順番が最後になっていますが、
仁王門です。
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羽島のハス
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-07-12
今は忙しくて、ブログにかける時間がないのでしばらくアップしないつもりだったが、ハスの写真だけ撮りに行ったので載せたいと思う。撮影:OLYMPUS PEN E-PL9、M.ZUIKO DIGITAL ED 40-150mm F4.0-5.6
未分類
minsuke
2020-07-12T09:31:42+09:00
しばらくアップしないつもりだったが、
ハスの写真だけ撮りに行ったので載せたいと思う。
撮影:OLYMPUS PEN E-PL9、M.ZUIKO DIGITAL ED 40-150mm F4.0-5.6
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猫と曽根城公園
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-06-25
今回は久しぶりに飼い猫「ハナ」と菖蒲の写真を載せたいと思う。菖蒲といっても行くのが遅かったので、枯れている花がほとんどだった。枯れた花が入り込むと載せるのにもはばかるので、一枚だけしか載せていない。菖蒲があるのは、曽根城公園なのだが、池があり、ルアーで魚を釣っている人がいた。その池が割と綺麗だったので撮影している。撮影:OLYMPUS OM-D E-M10 MarkIII、M.ZUIKO DIGITAL ED 14-150mm F4.0-5.6「ハナ」は嫁さんではなく、僕に付きまとう猫である。他に3匹飼っているのだが、「ハナ」がいつもそばにいるので、他の猫が寄ってこれないほどである。体重は3キロほどしかなく、もう少し太ってほしいのだが、栄養失調で拾った猫なので肉が付きにくいのかもしれない。今頃撮影しに行ったら駄目だなと思った。枯れている花ばかりだった。2週間ほど遅かったと思う。曽根城公園の池ではルアーで釣りをしている人を見かける。何気に綺麗な池だなと思い、撮影。
猫と風景シリーズ
minsuke
2020-06-25T18:59:55+09:00
菖蒲といっても行くのが遅かったので、枯れている花がほとんどだった。
枯れた花が入り込むと載せるのにもはばかるので、
一枚だけしか載せていない。
菖蒲があるのは、曽根城公園なのだが、
池があり、ルアーで魚を釣っている人がいた。
その池が割と綺麗だったので撮影している。
撮影:OLYMPUS OM-D E-M10 MarkIII、M.ZUIKO DIGITAL ED 14-150mm F4.0-5.6
「ハナ」は嫁さんではなく、僕に付きまとう猫である。
他に3匹飼っているのだが、「ハナ」がいつもそばにいるので、
他の猫が寄ってこれないほどである。
体重は3キロほどしかなく、もう少し太ってほしいのだが、
栄養失調で拾った猫なので肉が付きにくいのかもしれない。
今頃撮影しに行ったら駄目だなと思った。
枯れている花ばかりだった。
2週間ほど遅かったと思う。
曽根城公園の池ではルアーで釣りをしている人を見かける。
何気に綺麗な池だなと思い、撮影。
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駅舎に惹かれて
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-06-21
今回は、鳥居本駅を載せたいと思う。以前にも撮影して載せたことがあるが、久しぶりに近くを走ったので寄ってみた。この駅舎、こじんまりとまとまっていて、デザイン的にお気に入りである。撮影:LUMIX GX7MK2、LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm/F2.8-4.0鳥居本駅(とりいもとえき)は、滋賀県彦根市鳥居本町にある近江鉄道本線の駅である。駅番号はOR03。1931年(昭和6年)3月15日 - 開業。1988年(昭和63年)3月12日 - 貨物取扱廃止。2013年(平成25年)3月29日 - 駅舎が登録有形文化財として登録。島式ホーム1面2線の地上駅。現在は終日無人駅となっている。駅舎とは、ホーム南端の構内踏切でつながる。ホーム上には古い待合室がある。 駅舎は開業時からのもので、独特の腰折れ屋根を持つ洋風建築が特徴。 かつては駅構内に日本石油米原油槽所があり、構内に小規模の荷役線が敷かれていた。当駅から彦根駅を経由して安治川口駅までタンク車による石油輸送が行われており、当駅 - 彦根駅間が近江鉄道で最後まで残った貨物列車運行区間であったが、油槽所閉鎖に伴い1988年に廃止され近江鉄道の貨物輸送は幕を閉じた。
歴史的建築物
minsuke
2020-06-21T20:00:30+09:00
以前にも撮影して載せたことがあるが、
久しぶりに近くを走ったので寄ってみた。
この駅舎、こじんまりとまとまっていて、
デザイン的にお気に入りである。
撮影:LUMIX GX7MK2、LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm/F2.8-4.0
鳥居本駅(とりいもとえき)は、滋賀県彦根市鳥居本町にある近江鉄道本線の駅である。
駅番号はOR03。
1931年(昭和6年)3月15日 - 開業。
1988年(昭和63年)3月12日 - 貨物取扱廃止。
2013年(平成25年)3月29日 - 駅舎が登録有形文化財として登録。
島式ホーム1面2線の地上駅。現在は終日無人駅となっている。
駅舎とは、ホーム南端の構内踏切でつながる。
ホーム上には古い待合室がある。
駅舎は開業時からのもので、独特の腰折れ屋根を持つ洋風建築が特徴。
かつては駅構内に日本石油米原油槽所があり、
構内に小規模の荷役線が敷かれていた。
当駅から彦根駅を経由して安治川口駅までタンク車による石油輸送が行われており、
当駅 - 彦根駅間が近江鉄道で最後まで残った貨物列車運行区間であったが、
油槽所閉鎖に伴い1988年に廃止され近江鉄道の貨物輸送は幕を閉じた。
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歴史的な建築物に惹かれて(岐阜県・小山寺と神光寺など)
https://scene803.blog.ss-blog.jp/2020-06-03
今回は、岐阜県美濃加茂市の小山寺、関市の神光寺と蓮華寺、山県市の大福寺の写真を載せたいと思う。風化した寺の建築物に非常に興味があり、そうでない建物にはあまり興味がないので、寺自体を紹介した記事ではないです。撮影:LUMIX GX7MK2、LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm/F2.8-4.0小山寺を撮影。飛騨川の風景写真も撮れると思い、行ってみたいと思った。(小山寺の解説)小山寺(しょうざんじ)は、岐阜県美濃加茂市にある臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は仁慈山。 通称「小山観音」、「こやま観音」、「子授け観音」。毎年3月第1日曜日の初午祭は賑わう。 本尊は馬頭観音。三面六臂の立像で、養蚕の守護仏とされている。また、開運のご利益があるという。 美濃三十三観音霊場第二十九札所。 飛騨川の中の岩の島にある。これは、元々は陸続きの岩山にあったが、下流の木曽川に今渡ダムが完成すると周りが水没し、岩山は孤島となってしまったのである。 1938年(昭和13年)、かんのん橋が開通し、飛騨川左岸(下米田町)と結ばれる。伝承によれば、平安時代末期、木曾義仲が母親の若名御前がこの近くで亡くなったさい、若名御前を弔う為に、所持していた(若名御前の護身仏の説もある)1寸8分の馬頭観音を祀り、観音堂を建立したのが始まりという。 室町時代の1450年~1500年頃、仁済禅師が、唐銭(周元通報)300枚を溶かして高さ1尺の馬頭観音を作り、小山観音の新たな本尊としたという。木曾義仲ゆかりの馬頭観音は秘仏とされる。 1657年(明暦3年)、小山観音堂は仁慈山 小山寺として開創される。飛騨川に浮かぶ小舟を撮影。
歴史的建築物
minsuke
2020-06-03T18:21:06+09:00
山県市の大福寺の写真を載せたいと思う。
風化した寺の建築物に非常に興味があり、そうでない建物にはあまり興味がないので、
寺自体を紹介した記事ではないです。
撮影:LUMIX GX7MK2、LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm/F2.8-4.0
小山寺を撮影。
飛騨川の風景写真も撮れると思い、行ってみたいと思った。
(小山寺の解説)
小山寺(しょうざんじ)は、岐阜県美濃加茂市にある臨済宗妙心寺派の寺院である。
山号は仁慈山。
通称「小山観音」、「こやま観音」、「子授け観音」。
毎年3月第1日曜日の初午祭は賑わう。
本尊は馬頭観音。三面六臂の立像で、養蚕の守護仏とされている。
また、開運のご利益があるという。
美濃三十三観音霊場第二十九札所。
飛騨川の中の岩の島にある。これは、元々は陸続きの岩山にあったが、
下流の木曽川に今渡ダムが完成すると周りが水没し、岩山は孤島となってしまったのである。
1938年(昭和13年)、かんのん橋が開通し、飛騨川左岸(下米田町)と結ばれる。
伝承によれば、平安時代末期、木曾義仲が母親の若名御前が
この近くで亡くなったさい、若名御前を弔う為に、
所持していた(若名御前の護身仏の説もある)1寸8分の馬頭観音を祀り、
観音堂を建立したのが始まりという。
室町時代の1450年~1500年頃、仁済禅師が、唐銭(周元通報)300枚を溶かして
高さ1尺の馬頭観音を作り、小山観音の新たな本尊としたという。
木曾義仲ゆかりの馬頭観音は秘仏とされる。
1657年(明暦3年)、小山観音堂は仁慈山 小山寺として開創される。
飛騨川に浮かぶ小舟を撮影。
干上がる沼に河童は呆然としていた。
次に神光寺に行った。
インターネットで調べてみると、かなり風化した本堂、鐘楼が目に入ったから
行ってみたいと思ったのである。
(神光寺の解説)
神光寺(じんこうじ)は岐阜県関市下有知の今宮山山麓にある高野山真言宗の寺院で、
山号を今宮山とする。
美濃三十三観音霊場24番札所であり、
美濃四国20番札所かつ中濃八十八ヶ所43番札所でもある。
本尊は平安時代作の十一面観世音菩薩像である。
養老3年(719年)に天台宗の僧、泰澄禅師が開いたとされる。
創建時の寺号は知られていない。
白山信仰にかかわりがあり、境内社として泰澄が加賀から
勧請したという白山神社があるほか、白山曼荼羅を所蔵する。
平安時代後期には源頼義が前九年の役に赴く際に先勝祈願を行い、
勝利を得たため伽藍整備を行ったと伝わる。
天喜5年(1057年)後冷泉天皇の勅願寺となり今宮山神光寺を名乗る。
その後戦禍に巻き込まれ寺運が傾くがも江戸時代の慶長年間に
高野山真言宗の僧、真栄により中興される。
曽代用水開削の際は住職の眞澄が開削を主導した喜田吉右衛門、
柴山伊兵衛、林幽閑を祀る井神社を創建した。
井神社は明治41年(1908年)に寺外に移されている。
また、柴山伊兵衛の墓が寺内にあるなど、曽代用水にかかわりの深い寺である。
風化した本堂、鐘楼があまりに惹きつけるものがある。
内心、来てよかったと思った。
いろいろなお寺に最近行っているが、
これほどの風化していて、魅力的な建物はなかなかない。
次に蓮華寺に行った。
建物はあまり撮っていない。
風化した感じのする建物はなかったからである。
(蓮華寺の解説)
金光山蓮華寺(れんげじ)は岐阜県関市植野にある真言宗智山派の寺院。
美濃四国84番札所で、尾張藩家老石河家香華所となっている。
治承4年(1180年)の以仁王の挙兵に参加した源頼政が、
敗北して自害した折にその首を源国政(山県国政)の領地である当地に葬ったのが起源とされ、
寺名は源頼政の戒名に因んでいる。
源頼政と伝わる首塚は蓮華寺西側の山中にある。(源頼政の墓の伝承地は当地を含め複数ある。)
その後寺勢は衰微したものの、江戸時代の寛文6年(1666年)に当地を訪れた
尾張藩家老であった石川正光が荒廃を嘆いて一族の菩提寺として再興し、外護した。
蓮華寺南西にある墓地には石河一族の墓があり、関市指定の重要文化財となっている。
源頼政の墓所
次に大福寺に行った。
山県市の文化財に指定されている大福寺観音堂を探索すべく、
大門地区に入る。
低い山並みを背に田畑が広がるその一角に、ひっそりと建つ
のが大福寺である。どうも無住のお寺のようだ。
小さな観音堂ではあるが、最も古い棟札は、1659年とかで、
その建立年代はこの年代と推定できる。
質素なお堂ではあるが、400年近く耐えた歴史を想像したい。
大福寺の前身は大福院であったと伝えられるが、その開創は
不詳で、元禄年間(1688~1704年)現在地に移転したと
いわれている。
観音堂(市の重要文化財)
鐘楼跡だと思われる。
誰も住んでいないようである。
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