風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。
僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。当尾の里:石仏を巡りて [京都]
今回は昨年9月に撮影した当尾の里の写真を載せたいと思う。
奈良県と境を接する京都府加茂町の「当尾の里」は、
平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて浄土信仰の霊地として栄え、
今も「石仏の里」として多くの人に親しまれている。
「当尾の里」は、行政的には「京都府」ではあるが、
奈良の興福寺の別所であったところであり、仏教的には南都奈良の影響下にあった。
この里には「浄瑠璃寺」と「岩船寺」、それに多くの「石仏」がある。
撮影:前半はpanasonic LUMIX DMC-G1、後半はPENTAX K20D
当尾の里近く。
車を停めて撮影。
当尾の里に到着した。
岩船寺の駐車場から歩き始めている。
不動明王立像
八帖岩
わらい仏。
当尾の里で一番人気のある石仏。
阿弥陀三尊像
阿弥陀仏(中央)、勢至菩薩、観音菩薩。
唐臼の壺。
阿弥陀如来坐像
向かって左側の壁面には地蔵菩薩立像が彫られている。
あたご灯籠
藪の中の三仏磨崖像
1つの岩に阿弥陀仏坐像、もう1つには地蔵菩薩とやや小さく観音菩薩の両立像が
まつられている。
浄瑠璃寺前の土産売り場にいた猫
浄瑠璃寺三重塔
(浄瑠璃寺の解説)
浄瑠璃寺(じょうるりじ)は、京都府木津川市加茂町にある真言律宗の寺院。
本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基(創立者)は義明上人である。
寺名は薬師如来の居所たる東方浄土『東方浄瑠璃世界』に由来する。
本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、
古くは西小田原寺とも呼ばれた。
緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、
平安末期の本堂および三重塔が残り、
平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。
本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の
唯一の遺構として貴重である。
堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』にも当寺が登場する。
浄瑠璃寺の所在する地区は当尾(とうの)の里と呼ばれ、
付近には当尾石仏群と呼ばれる、
鎌倉時代にさかのぼる石仏、石塔などが点在している。
行政的には京都府に属するが、地理的には奈良の平城京や東大寺からも近く、
恭仁宮跡(奈良時代に一時期都が置かれた)や山城国分寺跡も近い。
浄瑠璃寺の起源や歴史については、
当寺に伝来する『浄瑠璃寺流記事』(じょうるりじるきのこと)という
14世紀の記録がほぼ唯一のよりどころである。
それによると、当寺は永承2年(1047年)、
当麻(たいま、現・奈良県葛城市)の僧・義明上人を開基(創立者)、
阿知山大夫重頼を檀那(後援者)とし、
薬師如来を本尊として創建されたものであるという。
義明上人、阿知山大夫重頼の2人の人物については、
詳しいことはわかっていないが、重頼は地元の小豪族であろうと推定されている。
浄瑠璃寺は九体阿弥陀如来を安置する寺として知られているが、
創建当初の本尊は薬師如来であった。
九体阿弥陀如来を安置する現・本堂の建立は
創建から60年後の嘉承2年(1107年)のことであった。
1つの堂に9体もの阿弥陀如来像を安置するという発想は
「九品往生」(くほんおうじょう)思想に由来する。
「九品往生」とは「観無量寿経」に説かれる思想で、
極楽往生(人が現世から阿弥陀如来のいる西方極楽浄土へと生まれ変わる)の
しかたには、仏の教えを正しく守る者から、
極悪人まで9つの段階ないし種類があるという考えである。
中世から近世にかけて浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺であったが、
明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良・西大寺の末寺となった。
トカゲを追っている。
奥に見える建物は本堂。
本堂
長尾の阿弥陀如来
巨大な笠石を持つ阿弥陀如来坐像。
のどかな風景が続く
奥に加茂の青少年の家が見えている。
その奥に大門仏谷の如来形大磨崖仏がある。
これが大門仏谷の如来形大磨崖仏。
当尾の石仏中で最古最大のもの。
大門石仏群
首切り地蔵
当尾の在銘石仏では最古のもの。
首のくびれが深く見えるためともまた処刑場にあったからともいわれている。
ここからの撮影は、PENTAX K20D
岩船観音寺跡
ざくろ
岩船寺前にて。
岩船寺三重塔が見えている。
(岩船寺の解説)
岩船寺(がんせんじ)は京都府木津川市加茂町にある真言律宗の寺院である。
本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は行基と伝える。
アジサイの名所として知られ「アジサイ寺」とも呼ばれる。
岩船寺の名は門前にある岩船(いわふね)にちなむ。
岩船寺は京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里に位置する。
この地区は行政的には京都府に属するが、地理的には奈良に近く、
文化的にも南都の影響が強いとされている。
近くには九体阿弥陀仏で知られる浄瑠璃寺がある。
岩船寺、浄瑠璃寺付近には当尾石仏群と称される
鎌倉時代を中心とした石仏(多くは自然の岩壁に直接刻んだ磨崖仏)や
石塔が多数残り、その中には鎌倉時代の銘記を有するものも多い。
当尾には中世には、都会の喧騒を離れて修行に専念する僧が多数居住し、
多くの寺院が建てられたと言われ、
今に残る石仏・石塔群はその名残りであるといわれている。
岩船寺は寺伝によると天平元年(729年)に聖武天皇の発願により
行基が建立したと伝わる。
その後、平安時代初期の大同元年(806年)に
空海(弘法大師)の甥・智泉(ちせん)が入り、
伝法灌頂(密教の儀式)の道場として報恩院を建立した。
弘仁4年(813年)には嵯峨天皇が皇子誕生を祈念して
後の仁明天皇を授かったので、嵯峨天皇の皇后が伽藍を整え、
岩船寺と称するようになったという。
以上はあくまでも寺伝であり、中世以降の火災で古記録が失われているため、
草創の正確な時期や事情ははっきりしていない。
なお、本尊の阿弥陀如来坐像は坐高2.8メートルを超える大作であり、
像内に天慶9年(946年)の銘記があることから、
遅くとも10世紀半ばには岩船寺はかなりの規模の寺院であったと推定される。
承久3年(1221年)の承久の変の兵火により建物のほとんどを焼失するが、
室町時代に三重塔などが再建される。
江戸時代には興福寺の末寺であった。
本堂
弥勒如来立像
奈良県と境を接する京都府加茂町の「当尾の里」は、
平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて浄土信仰の霊地として栄え、
今も「石仏の里」として多くの人に親しまれている。
「当尾の里」は、行政的には「京都府」ではあるが、
奈良の興福寺の別所であったところであり、仏教的には南都奈良の影響下にあった。
この里には「浄瑠璃寺」と「岩船寺」、それに多くの「石仏」がある。
撮影:前半はpanasonic LUMIX DMC-G1、後半はPENTAX K20D
当尾の里近く。
車を停めて撮影。
当尾の里に到着した。
岩船寺の駐車場から歩き始めている。
不動明王立像
八帖岩
わらい仏。
当尾の里で一番人気のある石仏。
阿弥陀三尊像
阿弥陀仏(中央)、勢至菩薩、観音菩薩。
唐臼の壺。
阿弥陀如来坐像
向かって左側の壁面には地蔵菩薩立像が彫られている。
あたご灯籠
藪の中の三仏磨崖像
1つの岩に阿弥陀仏坐像、もう1つには地蔵菩薩とやや小さく観音菩薩の両立像が
まつられている。
浄瑠璃寺前の土産売り場にいた猫
浄瑠璃寺三重塔
(浄瑠璃寺の解説)
浄瑠璃寺(じょうるりじ)は、京都府木津川市加茂町にある真言律宗の寺院。
本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基(創立者)は義明上人である。
寺名は薬師如来の居所たる東方浄土『東方浄瑠璃世界』に由来する。
本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、
古くは西小田原寺とも呼ばれた。
緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、
平安末期の本堂および三重塔が残り、
平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。
本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の
唯一の遺構として貴重である。
堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』にも当寺が登場する。
浄瑠璃寺の所在する地区は当尾(とうの)の里と呼ばれ、
付近には当尾石仏群と呼ばれる、
鎌倉時代にさかのぼる石仏、石塔などが点在している。
行政的には京都府に属するが、地理的には奈良の平城京や東大寺からも近く、
恭仁宮跡(奈良時代に一時期都が置かれた)や山城国分寺跡も近い。
浄瑠璃寺の起源や歴史については、
当寺に伝来する『浄瑠璃寺流記事』(じょうるりじるきのこと)という
14世紀の記録がほぼ唯一のよりどころである。
それによると、当寺は永承2年(1047年)、
当麻(たいま、現・奈良県葛城市)の僧・義明上人を開基(創立者)、
阿知山大夫重頼を檀那(後援者)とし、
薬師如来を本尊として創建されたものであるという。
義明上人、阿知山大夫重頼の2人の人物については、
詳しいことはわかっていないが、重頼は地元の小豪族であろうと推定されている。
浄瑠璃寺は九体阿弥陀如来を安置する寺として知られているが、
創建当初の本尊は薬師如来であった。
九体阿弥陀如来を安置する現・本堂の建立は
創建から60年後の嘉承2年(1107年)のことであった。
1つの堂に9体もの阿弥陀如来像を安置するという発想は
「九品往生」(くほんおうじょう)思想に由来する。
「九品往生」とは「観無量寿経」に説かれる思想で、
極楽往生(人が現世から阿弥陀如来のいる西方極楽浄土へと生まれ変わる)の
しかたには、仏の教えを正しく守る者から、
極悪人まで9つの段階ないし種類があるという考えである。
中世から近世にかけて浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺であったが、
明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良・西大寺の末寺となった。
トカゲを追っている。
奥に見える建物は本堂。
本堂
長尾の阿弥陀如来
巨大な笠石を持つ阿弥陀如来坐像。
のどかな風景が続く
奥に加茂の青少年の家が見えている。
その奥に大門仏谷の如来形大磨崖仏がある。
これが大門仏谷の如来形大磨崖仏。
当尾の石仏中で最古最大のもの。
大門石仏群
首切り地蔵
当尾の在銘石仏では最古のもの。
首のくびれが深く見えるためともまた処刑場にあったからともいわれている。
ここからの撮影は、PENTAX K20D
岩船観音寺跡
ざくろ
岩船寺前にて。
岩船寺三重塔が見えている。
(岩船寺の解説)
岩船寺(がんせんじ)は京都府木津川市加茂町にある真言律宗の寺院である。
本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は行基と伝える。
アジサイの名所として知られ「アジサイ寺」とも呼ばれる。
岩船寺の名は門前にある岩船(いわふね)にちなむ。
岩船寺は京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里に位置する。
この地区は行政的には京都府に属するが、地理的には奈良に近く、
文化的にも南都の影響が強いとされている。
近くには九体阿弥陀仏で知られる浄瑠璃寺がある。
岩船寺、浄瑠璃寺付近には当尾石仏群と称される
鎌倉時代を中心とした石仏(多くは自然の岩壁に直接刻んだ磨崖仏)や
石塔が多数残り、その中には鎌倉時代の銘記を有するものも多い。
当尾には中世には、都会の喧騒を離れて修行に専念する僧が多数居住し、
多くの寺院が建てられたと言われ、
今に残る石仏・石塔群はその名残りであるといわれている。
岩船寺は寺伝によると天平元年(729年)に聖武天皇の発願により
行基が建立したと伝わる。
その後、平安時代初期の大同元年(806年)に
空海(弘法大師)の甥・智泉(ちせん)が入り、
伝法灌頂(密教の儀式)の道場として報恩院を建立した。
弘仁4年(813年)には嵯峨天皇が皇子誕生を祈念して
後の仁明天皇を授かったので、嵯峨天皇の皇后が伽藍を整え、
岩船寺と称するようになったという。
以上はあくまでも寺伝であり、中世以降の火災で古記録が失われているため、
草創の正確な時期や事情ははっきりしていない。
なお、本尊の阿弥陀如来坐像は坐高2.8メートルを超える大作であり、
像内に天慶9年(946年)の銘記があることから、
遅くとも10世紀半ばには岩船寺はかなりの規模の寺院であったと推定される。
承久3年(1221年)の承久の変の兵火により建物のほとんどを焼失するが、
室町時代に三重塔などが再建される。
江戸時代には興福寺の末寺であった。
本堂
弥勒如来立像
2010-07-16 00:42
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