風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。
僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。京都の紅葉(2部・常寂光寺と二尊院) [京都と奈良・紅葉]
引き続き「京都の紅葉」の写真を載せたいと思う。
常寂光寺からである。
常寂光寺にて。
常寂光寺は京都府京都市の嵯峨野にある日蓮宗の仏教寺院。
山号は小倉山。
百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって
境内からは嵯峨野を一望でき、秋は全山紅葉に包まれる。
その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされる。
平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる地で、
安土桃山時代末の慶長元年(1596年)に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が
隠棲の地として当山を開いた。
歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以と角倉栄可で、
小早川秀秋ら大名の寄進により堂塔伽藍が整備された。
仁王門 - 南北朝時代の貞和年間に本圀寺の南門として建立、
元和2年(1616年)に現在地に移築、藁葺き
仁王像 - 福井県小浜の日蓮宗寺院・長源寺から移された。
寺伝に運慶作というが実際の作者は不明
人が多くて建物は中途半端にしか撮っていない。
多宝塔 - 国の重要文化財、元和6年(1620年)建立、高さ12m、檜皮葺
常寂光寺からの眺望。
常寂光寺はここまで。
落柿舎
二尊院総門
二尊院(にそんいん)は、京都市右京区の嵯峨野にある天台宗の寺院。
山号は小倉山。詳しくは、小倉山二尊教院華台寺という。
二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像による。
境内の墓地には、角倉了以、三条実美、阪東妻三郎らの墓がある。
総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、紅葉の名所として知られる。
また、奥には、百人一首ゆかりの、藤原定家の時雨亭跡とされる場所がある。
平安時代初期の承和年中(834年 - 847年)、
嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したと伝える。
以後、荒廃するが、鎌倉時代初期、法然の高弟である湛空らにより再興される。
応仁の乱により堂塔伽藍が全焼するが、
本堂と唐門が約30年後の永正18年(1521年)に三条西実隆によって再建された。
二尊院本堂
二尊院はここまで。
祇王寺の近く。
撮影:Nikon D300
続きは明日載せたいと思います。
常寂光寺からである。
常寂光寺にて。
常寂光寺は京都府京都市の嵯峨野にある日蓮宗の仏教寺院。
山号は小倉山。
百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって
境内からは嵯峨野を一望でき、秋は全山紅葉に包まれる。
その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされる。
平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる地で、
安土桃山時代末の慶長元年(1596年)に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が
隠棲の地として当山を開いた。
歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以と角倉栄可で、
小早川秀秋ら大名の寄進により堂塔伽藍が整備された。
仁王門 - 南北朝時代の貞和年間に本圀寺の南門として建立、
元和2年(1616年)に現在地に移築、藁葺き
仁王像 - 福井県小浜の日蓮宗寺院・長源寺から移された。
寺伝に運慶作というが実際の作者は不明
人が多くて建物は中途半端にしか撮っていない。
多宝塔 - 国の重要文化財、元和6年(1620年)建立、高さ12m、檜皮葺
常寂光寺からの眺望。
常寂光寺はここまで。
落柿舎
二尊院総門
二尊院(にそんいん)は、京都市右京区の嵯峨野にある天台宗の寺院。
山号は小倉山。詳しくは、小倉山二尊教院華台寺という。
二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像による。
境内の墓地には、角倉了以、三条実美、阪東妻三郎らの墓がある。
総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、紅葉の名所として知られる。
また、奥には、百人一首ゆかりの、藤原定家の時雨亭跡とされる場所がある。
平安時代初期の承和年中(834年 - 847年)、
嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したと伝える。
以後、荒廃するが、鎌倉時代初期、法然の高弟である湛空らにより再興される。
応仁の乱により堂塔伽藍が全焼するが、
本堂と唐門が約30年後の永正18年(1521年)に三条西実隆によって再建された。
二尊院本堂
二尊院はここまで。
祇王寺の近く。
撮影:Nikon D300
続きは明日載せたいと思います。
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