風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。
僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。京都の紅葉(3部・祇王寺と大覚寺) [京都と奈良・紅葉]
引き続き「京都の紅葉」の写真を載せたいと思う。
祇王寺からである。
祇王寺にて。
祇王寺(ぎおうじ)は、京都市右京区にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。
寺自体は尼寺である。山号は高松山。院号は往生院。本尊は大日如来。
元々は浄土宗の僧・良鎮が創建した往生院の跡を引き継いで今日に至る。
また、平家物語には平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王と
仏御前が出家のため入寺したとしても知られている。
その後往生院は衰退をたどり、明治時代の初期に一時廃寺となるが、
嵯峨大覚寺の支配を受け真言宗に改宗し、
1905年(明治38年)に富岡鉄斎らの尽力もあって復興を遂げた。
苔の庭でも知られる。
祇王寺の庭園には真っ白な猫が人を気にせずに寝ていた。
祇王寺はここまで。
タイミング良く行けたので、京都のどこを歩いていても紅葉は見事であった。
化野念仏寺あたりにて。
愛宕神社一の鳥居前にある、鮎料理の老舗「つたや」
大覚寺近く。
大覚寺の表門
大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、
真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。
本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。
嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。
また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、
日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。
また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。
寺の境内(大沢池など)では映画やテレビ(特に時代劇)などの
撮影がよく行われている。
嵯峨野の北東に位置するこの地には、
平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。
嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、
修法を行ったのが起源とされる。
嵯峨天皇が死去してから30数年後の貞観18年(876年)、
皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。
淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂(こうじゃく)法親王、
仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。
鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、
ここで院政を行ったため「嵯峨御所」とも呼ばれた。
なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、
「中興の祖」と称されている。
亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、
後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。
この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。
元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、
南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に
「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。
このように、皇室ゆかりの寺院であり、
代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、
現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。
大覚寺の式台玄関
勅使門
宸 殿
江戸時代、後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物。
天皇に入内された徳川2代将軍秀忠の娘東福門院和子が、
女御御所の宸殿として使用していたもの。
妻飾り、破風板、天井などに装飾がこらされている。
廊下・広縁はすべてうぐいす張りとなっている 。
撮影:Nikon D300
続きは明日載せたいと思います。
祇王寺からである。
祇王寺にて。
祇王寺(ぎおうじ)は、京都市右京区にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。
寺自体は尼寺である。山号は高松山。院号は往生院。本尊は大日如来。
元々は浄土宗の僧・良鎮が創建した往生院の跡を引き継いで今日に至る。
また、平家物語には平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王と
仏御前が出家のため入寺したとしても知られている。
その後往生院は衰退をたどり、明治時代の初期に一時廃寺となるが、
嵯峨大覚寺の支配を受け真言宗に改宗し、
1905年(明治38年)に富岡鉄斎らの尽力もあって復興を遂げた。
苔の庭でも知られる。
祇王寺の庭園には真っ白な猫が人を気にせずに寝ていた。
祇王寺はここまで。
タイミング良く行けたので、京都のどこを歩いていても紅葉は見事であった。
化野念仏寺あたりにて。
愛宕神社一の鳥居前にある、鮎料理の老舗「つたや」
大覚寺近く。
大覚寺の表門
大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、
真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。
本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。
嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。
また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、
日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。
また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。
寺の境内(大沢池など)では映画やテレビ(特に時代劇)などの
撮影がよく行われている。
嵯峨野の北東に位置するこの地には、
平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。
嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、
修法を行ったのが起源とされる。
嵯峨天皇が死去してから30数年後の貞観18年(876年)、
皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。
淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂(こうじゃく)法親王、
仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。
鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、
ここで院政を行ったため「嵯峨御所」とも呼ばれた。
なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、
「中興の祖」と称されている。
亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、
後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。
この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。
元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、
南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に
「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。
このように、皇室ゆかりの寺院であり、
代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、
現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。
大覚寺の式台玄関
勅使門
宸 殿
江戸時代、後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物。
天皇に入内された徳川2代将軍秀忠の娘東福門院和子が、
女御御所の宸殿として使用していたもの。
妻飾り、破風板、天井などに装飾がこらされている。
廊下・広縁はすべてうぐいす張りとなっている 。
撮影:Nikon D300
続きは明日載せたいと思います。
こんにちは。先程はメッセージありがとうございました。
毎回見せていただいてるのですが
最後の総集編でコメントさせてもらおうかと思ってました♪
今年はフリーマーケットなどの用意でほとんど紅葉を
撮る事ができなかったので
minsukeさんとこで満喫してますよ。
↑猫グッズに釘付けでした(笑)
by そらまめ (2009-11-29 11:45)
白猫だ、猫に目がいってしまう(;^_^A アセアセ・・・
いい場所にいますね。
紅葉をよく見ているのでしょうね(^○^)
by green_blue_sky (2009-11-29 12:41)
白猫ちゃん~って手を振る変な私・・・
人力車乗ってみたいですねぇ、説明を聞きながら、四方山話などしながら、
ここも紅葉がきれいですね。ってminsukeさんの撮り方が上手いのか。
d(^0^)b グッ!こうして、古い、着物や廊下をみると、昔の人たちの生活が分かって、凄いよな~って関心します。解説もたっぷりとありがとうございます。これを読むのも楽しみのひとつです。
by マリエ (2009-11-29 16:17)
こんばんは。
白猫ちゃん可愛らしいですね。
まったりと秋を楽しんでいるようですね。
見事な紅葉で全てが絵になって素晴らしいですね。
人力車も似合って素敵ですね。
乗って紅葉と風景を楽しんでみたいです。
by kaoru (2009-11-29 18:48)
こんばんは
苔むした萱葺き屋根と紅葉の対比が美しいですね。
by mito_and_tanu (2009-11-30 00:04)