風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。
僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。北国街道(3部・永平寺) [福井県]
引き続き「北国街道」の写真を載せ、締めたいと思う。
一乗谷朝倉遺跡を後にして次に向かったのは永平寺であった。
通用門前の大きな杉
勅使門(唐門)
永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある
曹洞宗大本山の寺院である。
山号を吉祥山と称する。
開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。
總持寺とならんで日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。
道元の求法
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。
父は村上源氏の流れをくむ名門久我(こが)家の
久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、
14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。
道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、
ほんらい悟っている(本覚思想)はずなのに、
なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。
道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、
栄西は道元が出家した2年後に、すでに世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)、建仁寺に入り、
栄西の直弟子である明全(1184-1225)に師事した。
しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、
真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。
師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄禅師(1163-1228)に入門し、修行した。
如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐」(しかんたざ)を
強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。
道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。
なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、
2度と日本の地を踏むことはできなかった。
日本へ戻った道元ははじめ建仁寺に住し、
のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、
旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
越前下向
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、
道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、
興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。
寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。
この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、
現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、
道元はここでひと冬を過ごすが、
翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に
傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。
これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に
山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後
漢明帝のときの元号「永平」からであり、
意味は「永久の和平」である。
道元以降
その後の永平寺は、2世孤雲懐奘(こうんえじょう)、
3世徹通義介(てっつうぎかい)のもとで整備が進められた。
義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり
寺勢は急激に衰えた。
一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。
暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、
応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。
その後も火災に見舞われ、現存の諸堂はすべて近世以降のものである。
応安5年(1372年)、後円融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。
天文8年(1539年)、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の綸旨を受ける。
天正19年(1591年)、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受ける。
元和元年(1615年)、徳川幕府より法度が出され總持寺と並び大本山となる。
絵天井
山門内
山門 - 寛延2年(1749年)の建築。重層の門で、
階上には釈迦如来像、五百羅漢像などを安置する。
山門と中雀門の間の庭
仏殿 - 明治35年(1902年)の建築。
本尊の釈迦・弥勒・阿弥陀の三世仏(現在・未来・過去を表わす)の他、
禅宗初祖の達磨像、道元の師である如浄禅師像などを安置する。
仏殿
仏殿
仏殿
承陽殿 - 明治14年(1881年)の建築。
開山道元の廟で、道元以下第5世までの住職の像を安置する。
建物は仏殿
一文字廊前
仏殿
ここからの撮影はPENTAX K20D、Sigma 18-250mm F3.5-6.3 DC OS HSM
奥は大庫院 - 昭和5年(1930年)の建築。地上3階地下1階の近代木造建築で、
台所兼事務所の役を果たす。建築当時のエレベータが現存しており、
これは稼動中のものとしては日本最古といわれる。
仏殿
中雀門
浴室
山門内部
ここから再びpanasonic LUMIX DMC-G1にて撮影。
正門参道の杉
一乗谷近くの村
夕刻前の日差しが差し込んでいた。
撮影:panasonic LUMIX DMC-G1
PENTAX K20D、Sigma 18-250mm F3.5-6.3 DC OS HSM、
北国街道の続きの福井から金沢にかけては今月もしくは来月中には載せると思います。
一乗谷朝倉遺跡を後にして次に向かったのは永平寺であった。
通用門前の大きな杉
勅使門(唐門)
永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある
曹洞宗大本山の寺院である。
山号を吉祥山と称する。
開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。
總持寺とならんで日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。
道元の求法
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。
父は村上源氏の流れをくむ名門久我(こが)家の
久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、
14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。
道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、
ほんらい悟っている(本覚思想)はずなのに、
なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。
道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、
栄西は道元が出家した2年後に、すでに世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)、建仁寺に入り、
栄西の直弟子である明全(1184-1225)に師事した。
しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、
真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。
師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄禅師(1163-1228)に入門し、修行した。
如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐」(しかんたざ)を
強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。
道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。
なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、
2度と日本の地を踏むことはできなかった。
日本へ戻った道元ははじめ建仁寺に住し、
のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、
旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
越前下向
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、
道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、
興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。
寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。
この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、
現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、
道元はここでひと冬を過ごすが、
翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に
傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。
これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に
山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後
漢明帝のときの元号「永平」からであり、
意味は「永久の和平」である。
道元以降
その後の永平寺は、2世孤雲懐奘(こうんえじょう)、
3世徹通義介(てっつうぎかい)のもとで整備が進められた。
義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり
寺勢は急激に衰えた。
一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。
暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、
応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。
その後も火災に見舞われ、現存の諸堂はすべて近世以降のものである。
応安5年(1372年)、後円融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。
天文8年(1539年)、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の綸旨を受ける。
天正19年(1591年)、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受ける。
元和元年(1615年)、徳川幕府より法度が出され總持寺と並び大本山となる。
絵天井
山門内
山門 - 寛延2年(1749年)の建築。重層の門で、
階上には釈迦如来像、五百羅漢像などを安置する。
山門と中雀門の間の庭
仏殿 - 明治35年(1902年)の建築。
本尊の釈迦・弥勒・阿弥陀の三世仏(現在・未来・過去を表わす)の他、
禅宗初祖の達磨像、道元の師である如浄禅師像などを安置する。
仏殿
仏殿
仏殿
承陽殿 - 明治14年(1881年)の建築。
開山道元の廟で、道元以下第5世までの住職の像を安置する。
建物は仏殿
一文字廊前
仏殿
ここからの撮影はPENTAX K20D、Sigma 18-250mm F3.5-6.3 DC OS HSM
奥は大庫院 - 昭和5年(1930年)の建築。地上3階地下1階の近代木造建築で、
台所兼事務所の役を果たす。建築当時のエレベータが現存しており、
これは稼動中のものとしては日本最古といわれる。
仏殿
中雀門
浴室
山門内部
ここから再びpanasonic LUMIX DMC-G1にて撮影。
正門参道の杉
一乗谷近くの村
夕刻前の日差しが差し込んでいた。
撮影:panasonic LUMIX DMC-G1
PENTAX K20D、Sigma 18-250mm F3.5-6.3 DC OS HSM、
北国街道の続きの福井から金沢にかけては今月もしくは来月中には載せると思います。
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