風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。
僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。北国街道(総合版・木之本~福井) [岐阜県]
今回は北国街道沿い、もしくはその周辺の風景、名刹、史跡を載せたいと思う。
130枚ほどあります。
(北国街道の解説)
一般に北国街道と呼ばれる街道には二つのルートがある。
一つは長野県の北部から新潟県の直江津(上越市)で北陸道に合流するコース。
もう一つが、滋賀県北部の琵琶湖東岸を南北につないで
福井県の今庄町で北陸道につながるコースである。
今回撮影したのは、湖北を通る北国街道である。
北国街道のなかでとくに往来が多かったのが、北陸から木之本にいたる道。
江戸時代には福井藩から南の大名は参勤交代の際にこの道を通り、
木之本から北国脇往還を抜けて関ケ原で中山道に入った。
福井県と滋賀県の県境では栃の木峠を越えるのだが、
このルートを整備したのが戦国時代の武将として知られる柴田勝家である。
福井を拠点に北陸を治めていた勝家は、
それまで大きく西に迂回して湖北に入っていた北国街道を南進させることで
最短距離のコースをつくった。
織田信長の死後、豊臣秀吉と対立した柴田勝家は天正十年(一五八二)に
賎ケ岳で秀吉軍と戦うが、このときも栃ノ木峠を越えて賎ケ岳に向かった。
そして、戦いに敗れた勝家が敗走したのも、この北国街道であった。
一方、勝利を収めた秀吉は、越前に入ったあと長浜城に帰るが、
このとき木之本から長浜までは北国街道を通ったのではないかと思われる。
今回は滋賀県の長浜から福井県の永平寺まで撮影している。
まずは滋賀県高月町にある渡岸寺から。
国宝の十一面観音像で有名。
真宗大谷派向源寺の所属で、渡岸寺観音堂は通称。
奈良時代、聖武天皇の勅願により泰澄が十一面観音立像を
刻んで観音堂を建立したと伝えられる。
その後最澄が七堂伽藍を建てて以来栄えた。
戦国時代、浅井・織田両軍の戦いで、寺は焼失したが、
本尊の十一面観音立像は土中に埋められて災禍を免れた。
高さ1.95m、平安初期の一木造で、
井上靖の『星と祭』や水上勉の『湖の琴』、土門挙の写真などにより全国的に有名。
国宝十一面観音像は大日如来像と一緒に収容されている。
白州正子も著書で書いているように後姿を含めて秀麗且つ官能的で
特に両耳の大きな耳とうがインドや聖域の影響を受けて特徴的である。
十一面観音は自在菩薩ともいわれ左手に水瓶を持っている。
頭上の面は前の三面は慈悲菩薩面、化仏は阿弥陀如来
向かって右三面は瞋怒面(しんぬめん)仏道に導く。
向かって左三面は白牙上出面(ばくげじょうしゅつめん)善行を薦める
後ろの一面は暴悪大笑相(ぼうばくだいしょうめん)悪を威圧
頂上は仏面 二臂像と四臂像がある。
夫々の表情は観音経により人間の苦しみを助け諭すためのものである。
なお十一面観音は国宝がたったの7体のみである。
奈良県・・・室生寺、聖林寺、法華寺
大阪府・・・道明寺
京都府・・・観音寺 六波羅蜜寺
滋賀県・・・渡岸寺
(この写真だけWEBより引用しています。)
渡岸寺近くの神社にて。
木之本宿にて
「木ノ本宿」は金沢城下を起点とし、北陸と京を結ぶ「北國街道」の宿場町であり、
当宿を南下し鳥居本で中仙道に合流した。
また木ノ本宿を起点とする「北國脇往還」は東海方面への主要道として、
関ヶ原で中山道へ合流した。
江戸時代は街道の合流点として人馬の往来も激しく、
旅籠や商家が軒を連ね、街道の中央には小川と柳並木が続いた。
旧街道筋は今でも古い街並が当時の風情そのままに残され、
旧家の軒下には馬繋ぎの金具が残り、
うだつ、紅殻格子のあしらわれた平入り瓦葺きの町屋や妻入り町屋の立ち並ぶ街並、
旧本陣や造り酒屋などが当時の賑わいを今にとどめている。
また、戦国時代には多くの武将の行き交う戦略上の要衝であり、
賤ケ岳の合戦のおりには、東方の山「田上山」に秀吉方の砦が築かれ、
弟の秀長が守将を務め、北陸勢(柴田勝家軍)と対峙した。
また、街道の中央にある浄信寺(木之本地蔵院)は、
この合戦で討ち死にした中川清秀の菩提寺でもある。
木ノ本牛馬市
室町時代から昭和の初期まで、
毎年2回この地区20件ほどの民家を宿として伝統の牛馬市が開かれた。
江戸時代は藩の保護監督もあり地元をはじめ
但馬、丹波、伊勢、美濃、越前、若狭などから、
数百頭以上の牛馬が集まり盛況を極めた。
商いの方法は、買い手が売り手の袖の中に手を入れ、
双方が指を握って駆け引きをし、商談が成立すると両者が手を打ち、
周囲に居合わせた人たちも拍手をして成約を祝った。
また、木之本地蔵院(浄信寺)が獣疫平癒に霊験があると喧伝され、
この牛馬市には良い牛馬が集まるようになり、牛は荷車引きや農耕用に、
馬は主に武士たちが買い求めた。
宿場通りの中で、本町通りの道幅が広いのは、
牛馬市の際の試し乗りの場であったためと云われている。
山内一豊が妻の嫁入りの金子で買い求めたと伝わる名馬は
「馬宿平四郎」から出たと古くから当家に言い伝えられている。
余呉湖にて。
滋賀県の最も北に位置する余呉湖は、周囲約4.6kmの小さな内湖。
三方を山に囲まれ、別名「鏡湖」とも称されるその神秘的な美しさゆえに、
自然と羽衣伝説が生まれてきたのだろう。
岸辺には、天女が羽衣を掛けた、といわれる柳の木があり、
大きな枝を広げている。
湖の周囲は自然豊かなサイクリングコースになっており、
遊歩道や野外活動センターなども整備されている。
また、ワカサギ釣りのスポットとしても知られ、
冬には湖の桟橋から釣り糸を垂れる人を多く見かけることができる。
これがその柳の木。
余呉町柳ヶ瀬
明治天皇が泊まった場所であるようだ。
昔は宿だったと思われる。
栃の木峠より南にある村で、中河内あたり。
栃の木峠入り口にて
板取宿にて。
板取宿は近江・木之本から栃ノ木峠を越え今庄へ至る重要な宿場だった。
というのもそれまでは近江から越前に入るコースは
栃ノ木峠→木ノ芽峠→敦賀→越前だったのが、
柴田勝家が整備してからは木ノ芽峠を越えずに
今庄コースで行けるようになったのだ。
江戸時代には番所が設けられた。
木ノ芽峠から言奈地蔵を超えてさらに北へ街道を
下っていくと石畳の道と4軒の兜屋根の民家が現れる。
4軒の家2軒は実際にここで生活をしておられる。
板取宿近くの村にて。
今庄宿
今庄宿は、京と北陸を結ぶ北国街道の宿場町。
北国街道は木之本から栃ノ木峠を越えてこの今庄宿に至っているが、
その整備前から利用されていた木ノ芽峠越えの街道も、
この今庄宿を通っていた。
まさに、古くからの交通の要衝である。
いわば北陸の玄関口である今庄宿は、中世から江戸時代にかけて、
北国街道屈指の宿場町として繁栄した。
難所として知られた木の芽峠を越えの旅人には、
山中の都のように見えたかも知れない。
現在では観光客さえ少ないきわめてひっそりとした町であるが、
通りに沿って残る立派な家屋に、その名残が見て取れる。
南条あたり
一乗谷近くの村
一乗谷朝倉氏遺跡にて
一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、
福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡である。
戦国時代に越前国を支配した朝倉氏の居館および山城と城下町からなる。
山城の部分は一乗谷城(いちじょうだにじょう)と呼ばれる。
遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、
そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で
国の特別名勝の指定を受けている。
戦国時代・安土桃山時代
軍記物である『朝倉始末記』には1471年(文明3年)に
戦国初代朝倉敏景(孝景・教景)が黒丸館(福井市黒丸町)から
本拠を移したと記されている。
しかし、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの新資料によると、
朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。
文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、
また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから
応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが
避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。
このため北ノ京とも呼ばれた。
戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、
越前の中心地として栄えていた。
1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪する。
1567年(永禄10年)11月21日には戦国5代朝倉義景が
足利義秋(1568年(永禄11年)4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎える。
義景は義秋を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため
織田信長を頼って美濃国に出国する。
1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した義景は
一乗谷を放棄し大野へ逃れる。
翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。
その後、信長より守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が
一乗谷に館を構え、越前を統治していた。
しかし、同じ旧臣である富田長繁ら国人は長俊に反感を抱いており、
民衆に一揆を起こさせるべく画策した。
1575年(天正3年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆が蜂起、
翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人が
一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた。
信長が一揆を平定した後、
越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、
辺境である一乗谷は田畑の下に埋もれていった。
復元町並を撮影。
一乗谷朝倉遺跡を後にして次に向かったのは永平寺であった。
通用門前の大きな杉
勅使門(唐門)
永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある
曹洞宗大本山の寺院である。
山号を吉祥山と称する。
開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。
總持寺とならんで日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。
道元の求法
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。
父は村上源氏の流れをくむ名門久我(こが)家の
久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、
14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。
道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、
ほんらい悟っている(本覚思想)はずなのに、
なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。
道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、
栄西は道元が出家した2年後に、すでに世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)、建仁寺に入り、
栄西の直弟子である明全(1184-1225)に師事した。
しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、
真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。
師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄禅師(1163-1228)に入門し、修行した。
如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐」(しかんたざ)を
強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。
道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。
なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、
2度と日本の地を踏むことはできなかった。
日本へ戻った道元ははじめ建仁寺に住し、
のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、
旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
越前下向
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、
道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、
興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。
寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。
この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、
現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、
道元はここでひと冬を過ごすが、
翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に
傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。
これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に
山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後
漢明帝のときの元号「永平」からであり、
意味は「永久の和平」である。
道元以降
その後の永平寺は、2世孤雲懐奘(こうんえじょう)、
3世徹通義介(てっつうぎかい)のもとで整備が進められた。
義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり
寺勢は急激に衰えた。
一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。
暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、
応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。
その後も火災に見舞われ、現存の諸堂はすべて近世以降のものである。
応安5年(1372年)、後円融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。
天文8年(1539年)、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の綸旨を受ける。
天正19年(1591年)、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受ける。
元和元年(1615年)、徳川幕府より法度が出され總持寺と並び大本山となる。
絵天井
山門内
山門 - 寛延2年(1749年)の建築。重層の門で、
階上には釈迦如来像、五百羅漢像などを安置する。
山門と中雀門の間の庭
仏殿 - 明治35年(1902年)の建築。
本尊の釈迦・弥勒・阿弥陀の三世仏(現在・未来・過去を表わす)の他、
禅宗初祖の達磨像、道元の師である如浄禅師像などを安置する。
仏殿
仏殿
仏殿
承陽殿 - 明治14年(1881年)の建築。
開山道元の廟で、道元以下第5世までの住職の像を安置する。
建物は仏殿
一文字廊前
仏殿
ここからの撮影はPENTAX K20D、Sigma 18-250mm F3.5-6.3 DC OS HSM
奥は大庫院 - 昭和5年(1930年)の建築。地上3階地下1階の近代木造建築で、
台所兼事務所の役を果たす。建築当時のエレベータが現存しており、
これは稼動中のものとしては日本最古といわれる。
仏殿
中雀門
浴室
山門内部
ここから再びpanasonic LUMIX DMC-G1にて撮影。
正門参道の杉
一乗谷近くの村
夕刻前の日差しが差し込んでいた。
撮影:panasonic LUMIX DMC-G1
PENTAX K20D、Sigma 18-250mm F3.5-6.3 DC OS HSM、
北国街道の続きの福井から金沢にかけては今月もしくは来月中には載せると思います。
130枚ほどあります。
(北国街道の解説)
一般に北国街道と呼ばれる街道には二つのルートがある。
一つは長野県の北部から新潟県の直江津(上越市)で北陸道に合流するコース。
もう一つが、滋賀県北部の琵琶湖東岸を南北につないで
福井県の今庄町で北陸道につながるコースである。
今回撮影したのは、湖北を通る北国街道である。
北国街道のなかでとくに往来が多かったのが、北陸から木之本にいたる道。
江戸時代には福井藩から南の大名は参勤交代の際にこの道を通り、
木之本から北国脇往還を抜けて関ケ原で中山道に入った。
福井県と滋賀県の県境では栃の木峠を越えるのだが、
このルートを整備したのが戦国時代の武将として知られる柴田勝家である。
福井を拠点に北陸を治めていた勝家は、
それまで大きく西に迂回して湖北に入っていた北国街道を南進させることで
最短距離のコースをつくった。
織田信長の死後、豊臣秀吉と対立した柴田勝家は天正十年(一五八二)に
賎ケ岳で秀吉軍と戦うが、このときも栃ノ木峠を越えて賎ケ岳に向かった。
そして、戦いに敗れた勝家が敗走したのも、この北国街道であった。
一方、勝利を収めた秀吉は、越前に入ったあと長浜城に帰るが、
このとき木之本から長浜までは北国街道を通ったのではないかと思われる。
今回は滋賀県の長浜から福井県の永平寺まで撮影している。
まずは滋賀県高月町にある渡岸寺から。
国宝の十一面観音像で有名。
真宗大谷派向源寺の所属で、渡岸寺観音堂は通称。
奈良時代、聖武天皇の勅願により泰澄が十一面観音立像を
刻んで観音堂を建立したと伝えられる。
その後最澄が七堂伽藍を建てて以来栄えた。
戦国時代、浅井・織田両軍の戦いで、寺は焼失したが、
本尊の十一面観音立像は土中に埋められて災禍を免れた。
高さ1.95m、平安初期の一木造で、
井上靖の『星と祭』や水上勉の『湖の琴』、土門挙の写真などにより全国的に有名。
国宝十一面観音像は大日如来像と一緒に収容されている。
白州正子も著書で書いているように後姿を含めて秀麗且つ官能的で
特に両耳の大きな耳とうがインドや聖域の影響を受けて特徴的である。
十一面観音は自在菩薩ともいわれ左手に水瓶を持っている。
頭上の面は前の三面は慈悲菩薩面、化仏は阿弥陀如来
向かって右三面は瞋怒面(しんぬめん)仏道に導く。
向かって左三面は白牙上出面(ばくげじょうしゅつめん)善行を薦める
後ろの一面は暴悪大笑相(ぼうばくだいしょうめん)悪を威圧
頂上は仏面 二臂像と四臂像がある。
夫々の表情は観音経により人間の苦しみを助け諭すためのものである。
なお十一面観音は国宝がたったの7体のみである。
奈良県・・・室生寺、聖林寺、法華寺
大阪府・・・道明寺
京都府・・・観音寺 六波羅蜜寺
滋賀県・・・渡岸寺
(この写真だけWEBより引用しています。)
渡岸寺近くの神社にて。
木之本宿にて
「木ノ本宿」は金沢城下を起点とし、北陸と京を結ぶ「北國街道」の宿場町であり、
当宿を南下し鳥居本で中仙道に合流した。
また木ノ本宿を起点とする「北國脇往還」は東海方面への主要道として、
関ヶ原で中山道へ合流した。
江戸時代は街道の合流点として人馬の往来も激しく、
旅籠や商家が軒を連ね、街道の中央には小川と柳並木が続いた。
旧街道筋は今でも古い街並が当時の風情そのままに残され、
旧家の軒下には馬繋ぎの金具が残り、
うだつ、紅殻格子のあしらわれた平入り瓦葺きの町屋や妻入り町屋の立ち並ぶ街並、
旧本陣や造り酒屋などが当時の賑わいを今にとどめている。
また、戦国時代には多くの武将の行き交う戦略上の要衝であり、
賤ケ岳の合戦のおりには、東方の山「田上山」に秀吉方の砦が築かれ、
弟の秀長が守将を務め、北陸勢(柴田勝家軍)と対峙した。
また、街道の中央にある浄信寺(木之本地蔵院)は、
この合戦で討ち死にした中川清秀の菩提寺でもある。
木ノ本牛馬市
室町時代から昭和の初期まで、
毎年2回この地区20件ほどの民家を宿として伝統の牛馬市が開かれた。
江戸時代は藩の保護監督もあり地元をはじめ
但馬、丹波、伊勢、美濃、越前、若狭などから、
数百頭以上の牛馬が集まり盛況を極めた。
商いの方法は、買い手が売り手の袖の中に手を入れ、
双方が指を握って駆け引きをし、商談が成立すると両者が手を打ち、
周囲に居合わせた人たちも拍手をして成約を祝った。
また、木之本地蔵院(浄信寺)が獣疫平癒に霊験があると喧伝され、
この牛馬市には良い牛馬が集まるようになり、牛は荷車引きや農耕用に、
馬は主に武士たちが買い求めた。
宿場通りの中で、本町通りの道幅が広いのは、
牛馬市の際の試し乗りの場であったためと云われている。
山内一豊が妻の嫁入りの金子で買い求めたと伝わる名馬は
「馬宿平四郎」から出たと古くから当家に言い伝えられている。
余呉湖にて。
滋賀県の最も北に位置する余呉湖は、周囲約4.6kmの小さな内湖。
三方を山に囲まれ、別名「鏡湖」とも称されるその神秘的な美しさゆえに、
自然と羽衣伝説が生まれてきたのだろう。
岸辺には、天女が羽衣を掛けた、といわれる柳の木があり、
大きな枝を広げている。
湖の周囲は自然豊かなサイクリングコースになっており、
遊歩道や野外活動センターなども整備されている。
また、ワカサギ釣りのスポットとしても知られ、
冬には湖の桟橋から釣り糸を垂れる人を多く見かけることができる。
これがその柳の木。
余呉町柳ヶ瀬
明治天皇が泊まった場所であるようだ。
昔は宿だったと思われる。
栃の木峠より南にある村で、中河内あたり。
栃の木峠入り口にて
板取宿にて。
板取宿は近江・木之本から栃ノ木峠を越え今庄へ至る重要な宿場だった。
というのもそれまでは近江から越前に入るコースは
栃ノ木峠→木ノ芽峠→敦賀→越前だったのが、
柴田勝家が整備してからは木ノ芽峠を越えずに
今庄コースで行けるようになったのだ。
江戸時代には番所が設けられた。
木ノ芽峠から言奈地蔵を超えてさらに北へ街道を
下っていくと石畳の道と4軒の兜屋根の民家が現れる。
4軒の家2軒は実際にここで生活をしておられる。
板取宿近くの村にて。
今庄宿
今庄宿は、京と北陸を結ぶ北国街道の宿場町。
北国街道は木之本から栃ノ木峠を越えてこの今庄宿に至っているが、
その整備前から利用されていた木ノ芽峠越えの街道も、
この今庄宿を通っていた。
まさに、古くからの交通の要衝である。
いわば北陸の玄関口である今庄宿は、中世から江戸時代にかけて、
北国街道屈指の宿場町として繁栄した。
難所として知られた木の芽峠を越えの旅人には、
山中の都のように見えたかも知れない。
現在では観光客さえ少ないきわめてひっそりとした町であるが、
通りに沿って残る立派な家屋に、その名残が見て取れる。
南条あたり
一乗谷近くの村
一乗谷朝倉氏遺跡にて
一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、
福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡である。
戦国時代に越前国を支配した朝倉氏の居館および山城と城下町からなる。
山城の部分は一乗谷城(いちじょうだにじょう)と呼ばれる。
遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、
そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で
国の特別名勝の指定を受けている。
戦国時代・安土桃山時代
軍記物である『朝倉始末記』には1471年(文明3年)に
戦国初代朝倉敏景(孝景・教景)が黒丸館(福井市黒丸町)から
本拠を移したと記されている。
しかし、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの新資料によると、
朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。
文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、
また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから
応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが
避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。
このため北ノ京とも呼ばれた。
戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、
越前の中心地として栄えていた。
1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪する。
1567年(永禄10年)11月21日には戦国5代朝倉義景が
足利義秋(1568年(永禄11年)4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎える。
義景は義秋を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため
織田信長を頼って美濃国に出国する。
1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した義景は
一乗谷を放棄し大野へ逃れる。
翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。
その後、信長より守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が
一乗谷に館を構え、越前を統治していた。
しかし、同じ旧臣である富田長繁ら国人は長俊に反感を抱いており、
民衆に一揆を起こさせるべく画策した。
1575年(天正3年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆が蜂起、
翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人が
一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた。
信長が一揆を平定した後、
越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、
辺境である一乗谷は田畑の下に埋もれていった。
復元町並を撮影。
一乗谷朝倉遺跡を後にして次に向かったのは永平寺であった。
通用門前の大きな杉
勅使門(唐門)
永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある
曹洞宗大本山の寺院である。
山号を吉祥山と称する。
開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。
總持寺とならんで日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。
道元の求法
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。
父は村上源氏の流れをくむ名門久我(こが)家の
久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、
14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。
道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、
ほんらい悟っている(本覚思想)はずなのに、
なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。
道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、
栄西は道元が出家した2年後に、すでに世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)、建仁寺に入り、
栄西の直弟子である明全(1184-1225)に師事した。
しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、
真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。
師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄禅師(1163-1228)に入門し、修行した。
如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐」(しかんたざ)を
強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。
道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。
なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、
2度と日本の地を踏むことはできなかった。
日本へ戻った道元ははじめ建仁寺に住し、
のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、
旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
越前下向
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、
道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、
興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。
寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。
この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、
現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、
道元はここでひと冬を過ごすが、
翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に
傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。
これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に
山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後
漢明帝のときの元号「永平」からであり、
意味は「永久の和平」である。
道元以降
その後の永平寺は、2世孤雲懐奘(こうんえじょう)、
3世徹通義介(てっつうぎかい)のもとで整備が進められた。
義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり
寺勢は急激に衰えた。
一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。
暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、
応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。
その後も火災に見舞われ、現存の諸堂はすべて近世以降のものである。
応安5年(1372年)、後円融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。
天文8年(1539年)、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の綸旨を受ける。
天正19年(1591年)、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受ける。
元和元年(1615年)、徳川幕府より法度が出され總持寺と並び大本山となる。
絵天井
山門内
山門 - 寛延2年(1749年)の建築。重層の門で、
階上には釈迦如来像、五百羅漢像などを安置する。
山門と中雀門の間の庭
仏殿 - 明治35年(1902年)の建築。
本尊の釈迦・弥勒・阿弥陀の三世仏(現在・未来・過去を表わす)の他、
禅宗初祖の達磨像、道元の師である如浄禅師像などを安置する。
仏殿
仏殿
仏殿
承陽殿 - 明治14年(1881年)の建築。
開山道元の廟で、道元以下第5世までの住職の像を安置する。
建物は仏殿
一文字廊前
仏殿
ここからの撮影はPENTAX K20D、Sigma 18-250mm F3.5-6.3 DC OS HSM
奥は大庫院 - 昭和5年(1930年)の建築。地上3階地下1階の近代木造建築で、
台所兼事務所の役を果たす。建築当時のエレベータが現存しており、
これは稼動中のものとしては日本最古といわれる。
仏殿
中雀門
浴室
山門内部
ここから再びpanasonic LUMIX DMC-G1にて撮影。
正門参道の杉
一乗谷近くの村
夕刻前の日差しが差し込んでいた。
撮影:panasonic LUMIX DMC-G1
PENTAX K20D、Sigma 18-250mm F3.5-6.3 DC OS HSM、
北国街道の続きの福井から金沢にかけては今月もしくは来月中には載せると思います。
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