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風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。

僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。

奈良・東大寺周辺(2部) [奈良]

引き続き東大寺周辺の写真を載せたいと思う。



飛火野にて


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浮見堂にて。

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東大寺に戻ってきた。

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法華寺の解説

法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある仏教寺院。
奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。
本尊は十一面観音、開基は光明皇后である。
宗旨はもと真言律宗に属したが、1999年に同宗を離脱し、光明宗と称する。

光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られる。
東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、
法華寺は総国分尼寺と位置づけられ、
詳しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といった。
法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、
不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。
天平17年(745年)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである。
聖武天皇は天平13年(741年)2月14日、
国分寺・国分尼寺建立の詔を発した。
法華寺は、この詔に基づいて建立整備された国分尼寺である。
国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられてからの数年間、
大和国の国分尼寺は存在しなかったのか、
存在したとしたらどこにあったのかなど、
創建経緯の細部については不明な点が多い。

法華寺は皇后発願の寺院であり、国分尼寺という位置づけでありながら、
伽藍の完成までには相当の歳月を要したとみられる。
法華寺は平安京遷都以後は次第に衰微し、
平安時代末期にはかなり荒廃していたことが当時の記録から伺える。
治承4年(1180年)の平重衡の兵火では東大寺、興福寺が炎上し、
法華寺も被害を受けたという。
鎌倉時代に入り、
東大寺大仏の再興を果たした僧・俊乗坊重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)は、
建仁3年(1203年)、法華寺の堂宇や仏像を再興した。
現在も寺に残る鎌倉時代様式の木造仏頭は、
この再興時の本尊廬舎那仏(るしゃなぶつ)の頭部であると推定されている。
さらに、その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊(えいそん)によって
本格的な復興がなされた。
その後、明応8年(1499年)と永正3年(1506年)の兵火や
慶長元年(1596年)の地震で東塔以外の建物を失い、
現在の本堂、鐘楼、南門は慶長6年(1601年)頃、
豊臣秀頼と母の淀殿が片桐且元を奉行として復興したものである。
なお、兵火や地震の被害をまぬがれていた東塔は
宝永4年(1707年)の地震で倒壊した。
法華寺は叡尊の時代以来、
真言律宗における門跡寺院としての寺格を保っていたが、
平成11年(1999年)、創建当時のように独立した寺に戻ることとなり、
光明皇后にちなんで「光明宗」と名づけ離脱・独立した。



本堂を撮影。

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本堂屋根瓦

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鐘楼

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本堂屋根瓦

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南門

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平城京の解説

平城京(へいぜいきょう、へいじょうきょう)は、かつての日本の首都。
いわゆる「奈良の都」である。唐の都「長安」や北魏洛陽城などを
模倣して建造されたとされ、
現在の奈良県奈良市および大和郡山市近辺に位置していた。

藤原京から平城京への遷都は707年(慶雲4)に審議が始まり、
708年(和銅元)には元明天皇により遷都の詔が出された。
しかし、710年(和銅3)に遷都された時には、内裏と大極殿、
その他の官舎が整備された程度と考えられており、
寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまで、
段階的に造営されていったと思われる。
740年、恭仁京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、
745年には、再び平城京に遷都され、
その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで
74年間都がおかれ政治の中心地であった。
山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。
810年9月6日、平城上皇によって平安京を廃し平城京へ遷都する詔が出された。
これに対し嵯峨天皇が迅速に兵を動かし、
9月12日、平城上皇は剃髪した(薬子の変)。
これによって平城京への遷都は実現することはなかった。

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大極殿が復元されようとしている。

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朱雀門

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般若寺の解説

般若寺(はんにゃじ)は、奈良市北部・奈良坂に位置する真言律宗の寺院。
本尊は文殊菩薩。コスモス寺の名で知られる。
般若寺は東大寺大仏殿や正倉院の北方、
奈良坂と呼ばれる登り坂を登りきった地点に位置する。
般若寺門前を南北に通る道は「京街道」と呼ばれ、
大和(奈良県)と山城(京都府)を結ぶ、古代以来重要な道であった。
この道はまた、平城京の東端を南北に通っていた東七坊大路の延長でもある。


般若寺の創建事情や時期については正史に記載がなく、
創立者についても諸説あって、正確なところは不明である。
ただし、般若寺の境内からは奈良時代の古瓦が出土しており、
奈良時代からこの地に寺院が存在していたことは確かである。
当時の本尊・文殊菩薩像を開眼供養した際の願文(がんもん)では、
「般若寺は聖武天皇が創建し、平安時代に僧観賢によって再興された」
とする説を採用している。
治承4年(1180年)、平重衡による南都焼き討ちの際には、
東大寺、興福寺などとともに般若寺も焼け落ち、
その後しばらくは廃寺同然となっていたようである。

廃寺同然となっていた般若寺は、鎌倉時代に入って再興が進められた。
寺のシンボルとも言える十三重石塔は僧・良恵(りょうえ)らによって建立され、
建長5年(1253年)頃までに完成した。
その後、西大寺の僧・叡尊によって本尊や伽藍の復興が行われた。
叡尊は、西大寺を本山とする真言律宗の宗祖で、
日本仏教における戒律の復興に努め、
貧者・病者救済などの社会事業を行ったことで知られる。
般若寺の位置する奈良市街北方地域は、
中世には当時「非人」と呼ばれて差別された病者・貧者などの住む地域であり、
般若寺の近くには「北山十八間戸」というハンセン病などの不治の病の人を
収容する施設もあった。
叡尊は建長7年(1255年)から般若寺本尊文殊菩薩像の造立を始め、
文永4年(1267年)に開眼供養が行われた。
この文殊像は獅子の上に乗った巨像で、完成までに実に12年を要した。

その後、延徳2年(1490年)の火災、
永禄10年(1567年)東大寺大仏殿の戦いでの松永久秀の兵火によって
主要伽藍を焼失した。
延徳の火災では前述の叡尊によって供養された文殊菩薩像も焼失している。
明治初期の廃仏毀釈でも甚大な被害を受けた。
近代に入ってからは寺は荒れ果て、無住となって、
本山の西大寺が管理していた時代もあったが、
第二次大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備されている。



今年は日照りのせいでコスモスの開花が遅れているとのことであった。

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本堂

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ここの飼い猫らしくとても人懐っこかった。

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撮影:PENTAX K20D、Sigma 18mm~250mm OS

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