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僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。

歴史的な建築物に惹かれて(愛知県・甚目寺) [歴史的建築物]

今回は、愛知県のあま市にある甚目寺を載せたいと思う。
愛知県随一の古刹である。

撮影:OLYMPUS OM-D E-M10 MarkIII、LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm/F2.8-4.0


甚目寺(じもくじ)は、愛知県あま市(旧・海部郡甚目寺町)にある
真言宗智山派の寺院である。山号は鳳凰山。
鎮守として、式内社の漆部神社(ぬりべじんじゃ、元、八大明神社)があったが、
神仏分離令の後、境内を分けた。
所在していた甚目寺町の名は、当寺によっている。
通称「甚目寺観音」で、正式名称より通称で呼ばれることが多い。
本尊は聖観音。高さ一尺一寸五分の秘仏であり、
本堂に安置される十一面観音像(50年に1回開帳の秘仏)の胎内仏である。
東海三十六不動尊霊場第五番札所。尾張三十三観音第十六番札所。
尾張四観音の一つである。

伝承によれば、推古天皇5年(597年)、
伊勢国の漁師である甚目龍麿(甚目龍麻呂、はだめたつまろ)が漁をしていたところ、
当時海であったこの地付近で観音像が網にかかり、
その観音像を近くの砂浜に堂を建て安置したのが始まりという。
この観音像は、敏達天皇14年(585年)に、物部守屋、中臣勝海の手によって
海に投げられた3体の仏像のうち1体(聖観音)といわれている。
残りの2体のうち、阿弥陀如来は善光寺、勢至菩薩は安楽寺(太宰府天満宮)にあるという。
龍麻呂は、自らの氏をもって「はだめでら」と名づけた寺堂をたてたが、
これは、「波陀米泥良」と書いた。
「甚目寺」と書くようになったのは、中世からであるらしい。
言い伝えでは、創建の経緯は以上の通りだが、
実際、その歴史は奈良時代以前に遡ることができる、
という仏教考古学者である石田茂作の研究もある。
天智天皇が病気になったとき、甚目寺で祈祷したところ、快癒したという。
このことから、甚目寺は、勅願寺となった。
鎌倉時代には1山500坊、約3000人の僧がいたと伝わる。
戦国時代には、織田信長や徳川家康の保護を受けて繁栄した。
その他、豊臣秀吉から160石、徳川義直から300石の寄進があった。

沿革[編集]
597年(推古天皇5年) - 創建。
679年(天武天皇7年) - 寺堂が整えられ、鳳凰山の山号を受けた。
853年(仁寿3年)8月8日 - 工事で堂宇を建立するが、一時衰退した。
1103年(康和5年) - 藤原連長や僧智能、大江重房らの力によって再興された。
1124年(天治元年) - 地震で被害を受ける。
1126年(大治元年) - 大江為道とその女、長谷部氏が、復興につくした。
1196年(建久7年) - 源頼朝の命により、南大門の再建が行われる。
1201年(建仁元年) - 聖観上人が勧進、再興した。
1586年(天正13年) - 天正地震による被害を受ける。これを復興したとき、大和国長谷寺の伽藍をまねた、という。
このとき、本堂を再建し、仁王門の大規模な修繕がなされた。
1627年(寛永4年) - 三重塔の再建が行われる。
1634年(寛永11年) - 東門の再建が行われる。
1644年 (正保年間) - 仁王門の修理が行われる。
1873年(明治6年)7月19日 - 本堂が全焼するなどの被害を出した火災が起こる。
1875年(明治8年) - 仮の本堂を建築した。
1891年(明治24年) - 濃尾地震による造営物の倒壊、破損があった。
1992年(平成4年) - 本堂が再建された。


まずは南大門を撮影。

駐車場を探しているときに目に入ったが、

さすがに古刹と呼ばれるだけあって、門から立派だと感心した。

街中にあるので写したくないものがいっぱい入る。

P5273022.jpg-2.jpg




広角側を使用して変化をつけてみた。

建物を撮るときは歪みが出るので12mm(換算24mm)を

使う場面はそう多くはないかもしれないが、

何かマンネリ気味だなと感じたら、面白いと思う。

歌舞伎の決めポーズみたいな気がする。(意味不明かな)

P5273035.jpg-2.jpg




南大門をくぐると素晴らしい見栄えの三重塔が目に飛び込んできた。

これだけの風格のある三重塔は奈良や京都に行かないと見れないなと思った。

P5273223.jpg-3.jpg



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