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風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。

僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。

ある村のお寺の風景 [歴史的建築物]

山県市葛原という村を通りがかった。
気になる風景を撮影したので載せたいと思う。

撮影:OLYMPUS OM-D E-M10 MarkIII、LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm/F2.8-4.0


今では珍しい屋根の民家を撮影。

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とても綺麗な塀を持った大きな家が気になり、
車を停めて撮影した。

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八月堂というお寺が屋根越しに見えている。
以前にも撮影したことがあったが、
最近お寺の撮影に凝っているので、
また違った感覚で写真が撮れるかなと思い寄ってみた。

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歴史的な建築物に惹かれて(愛知県・甚目寺) [歴史的建築物]

今回は、愛知県のあま市にある甚目寺を載せたいと思う。
愛知県随一の古刹である。

撮影:OLYMPUS OM-D E-M10 MarkIII、LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm/F2.8-4.0


甚目寺(じもくじ)は、愛知県あま市(旧・海部郡甚目寺町)にある
真言宗智山派の寺院である。山号は鳳凰山。
鎮守として、式内社の漆部神社(ぬりべじんじゃ、元、八大明神社)があったが、
神仏分離令の後、境内を分けた。
所在していた甚目寺町の名は、当寺によっている。
通称「甚目寺観音」で、正式名称より通称で呼ばれることが多い。
本尊は聖観音。高さ一尺一寸五分の秘仏であり、
本堂に安置される十一面観音像(50年に1回開帳の秘仏)の胎内仏である。
東海三十六不動尊霊場第五番札所。尾張三十三観音第十六番札所。
尾張四観音の一つである。

伝承によれば、推古天皇5年(597年)、
伊勢国の漁師である甚目龍麿(甚目龍麻呂、はだめたつまろ)が漁をしていたところ、
当時海であったこの地付近で観音像が網にかかり、
その観音像を近くの砂浜に堂を建て安置したのが始まりという。
この観音像は、敏達天皇14年(585年)に、物部守屋、中臣勝海の手によって
海に投げられた3体の仏像のうち1体(聖観音)といわれている。
残りの2体のうち、阿弥陀如来は善光寺、勢至菩薩は安楽寺(太宰府天満宮)にあるという。
龍麻呂は、自らの氏をもって「はだめでら」と名づけた寺堂をたてたが、
これは、「波陀米泥良」と書いた。
「甚目寺」と書くようになったのは、中世からであるらしい。
言い伝えでは、創建の経緯は以上の通りだが、
実際、その歴史は奈良時代以前に遡ることができる、
という仏教考古学者である石田茂作の研究もある。
天智天皇が病気になったとき、甚目寺で祈祷したところ、快癒したという。
このことから、甚目寺は、勅願寺となった。
鎌倉時代には1山500坊、約3000人の僧がいたと伝わる。
戦国時代には、織田信長や徳川家康の保護を受けて繁栄した。
その他、豊臣秀吉から160石、徳川義直から300石の寄進があった。

沿革[編集]
597年(推古天皇5年) - 創建。
679年(天武天皇7年) - 寺堂が整えられ、鳳凰山の山号を受けた。
853年(仁寿3年)8月8日 - 工事で堂宇を建立するが、一時衰退した。
1103年(康和5年) - 藤原連長や僧智能、大江重房らの力によって再興された。
1124年(天治元年) - 地震で被害を受ける。
1126年(大治元年) - 大江為道とその女、長谷部氏が、復興につくした。
1196年(建久7年) - 源頼朝の命により、南大門の再建が行われる。
1201年(建仁元年) - 聖観上人が勧進、再興した。
1586年(天正13年) - 天正地震による被害を受ける。これを復興したとき、大和国長谷寺の伽藍をまねた、という。
このとき、本堂を再建し、仁王門の大規模な修繕がなされた。
1627年(寛永4年) - 三重塔の再建が行われる。
1634年(寛永11年) - 東門の再建が行われる。
1644年 (正保年間) - 仁王門の修理が行われる。
1873年(明治6年)7月19日 - 本堂が全焼するなどの被害を出した火災が起こる。
1875年(明治8年) - 仮の本堂を建築した。
1891年(明治24年) - 濃尾地震による造営物の倒壊、破損があった。
1992年(平成4年) - 本堂が再建された。


まずは南大門を撮影。

駐車場を探しているときに目に入ったが、

さすがに古刹と呼ばれるだけあって、門から立派だと感心した。

街中にあるので写したくないものがいっぱい入る。

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広角側を使用して変化をつけてみた。

建物を撮るときは歪みが出るので12mm(換算24mm)を

使う場面はそう多くはないかもしれないが、

何かマンネリ気味だなと感じたら、面白いと思う。

歌舞伎の決めポーズみたいな気がする。(意味不明かな)

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南大門をくぐると素晴らしい見栄えの三重塔が目に飛び込んできた。

これだけの風格のある三重塔は奈良や京都に行かないと見れないなと思った。

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歴史的な建築物に惹かれて(岐阜県・真禅院) [歴史的建築物]

今回は真禅院の写真を載せたいと思う。

真禅院には国の重要文化財の三重塔がある。


撮影:OLYMPUS OM-D E-M10 MarkIII、LEICA DG VARIO-ELMARIT 12-60mm/F2.8-4.0

(真禅院の解説)

真禅院(しんぜんいん)は、岐阜県不破郡垂井町にある天台宗の寺院である。
山号は朝倉山(あさくらさん)。
山号にちなみ朝倉山真禅院、朝倉寺、または単に朝倉山とも呼ばれている。
かつての南宮大社の僧坊であった。
本尊は無量寿如来(阿弥陀如来)、十一面観世音菩薩。
無量寿如来は南宮大社本地仏。
古くから霊験があると言われ、平安時代の承平天慶の乱の際、
朱雀天皇の勅令により平将門調伏祈願が行なわれている。
また、前九年の役の際、後冷泉天皇の命により安倍貞任追討祈願がおこなわれている。
境内には干支の守り本尊(守護仏)がある。
西美濃三十三霊場第十七札所。美濃七福神(大黒天)


真禅院は、近隣にある南宮大社(旧称南宮神社)と関係の深い寺院である。
南宮神社では近世末まで神仏習合の信仰が行われ、
神社内に仏堂、仏塔、僧坊などが建てられていた。
明治初年の神仏分離に伴い、三重塔、本地堂などが神社西方の現在地に移され、
朝倉山真禅院と称するようになったものである。
伝承によれば、真禅院の前身は天平11年(739年)
行基により創建された象背山宮処寺(ぞうはいさんぐうしょじ)であるとされる。
その後、延暦年間(790年頃)、勅令があり、
最澄によって南宮神社(現南宮大社)と両部習合(神仏習合)され、
神宮寺と改称したという。
宮処寺の名は『行基年譜』に見えず、創立者を行基とするのは後世の付託と思われるが、
後述のように宮処寺という寺院が奈良時代に存在したことは確認できる。
『続日本紀』天平12年(740年)12月条には、
「幸宮処寺及曳常泉」(宮処寺及び曳常泉を(聖武天皇が)訪れた)との記事がある。
これにより、天平12年の時点で今の岐阜県垂井町に「宮処寺」という寺院が存在したこと、
聖武天皇が同寺を訪れたことは史実と認められる。
垂井町内には宮処寺跡に比定される奈良時代の寺院跡があり、
岐阜県の史跡に指定されている。
ただし、この寺院跡は発掘調査未了のうちに宅地開発が進んで遺構が破壊されており、
この寺が南宮神社の神宮寺の前身であるかどうかは断定できない。
『扶桑略記』天慶3年(940年)正月24日条には「美濃国中山南神宮寺」において、
延暦寺の僧・明達が平将門調伏の修法を行ったことが見える。
これにより、平安時代には南宮神社に神宮寺が存在したことが明らかである。
神宮寺は近世末まで存続したが、前述のように明治時代初期の神仏分離に伴い廃絶した。
南宮神社内には神宮寺以外にも仏教僧の住む坊舎が複数存在したことは古絵図等からも明らかで、
真禅院はそうした僧坊の1つであった。
近世の記録(「本末分限改帳」)には、平将門の乱調伏のため、
南宮神社二ノ宮の十禅師社に社僧10名を置き、
その時建立された僧坊の1つが真禅院であるとされている。
文亀元年(1501年)、火災で焼失し、永正8年(1511年)、
美濃国守護土岐政房により再建。
慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いで南宮神社とともに焼失した。
南宮神社の再建は江戸幕府3代将軍徳川家光により実施され、
寛永19年(1642年)に落成した。
これが現存する南宮大社の社殿群である。
現存する真禅院の三重塔、本地堂もこれら社殿と一連の造営になるもので、
元来は南宮神社境内の南方に建っていた。
明治元年(1868年)、神仏分離により、南宮神社内の寺院・仏堂を統廃合し、
当時の真禅院の住職と地元の人々の手により現在地に移築した。
明治4年(1871年)までに移築が完了し、朝倉山真禅院として再出発した。
昭和57年(1982年)から昭和59年(1984年)にかけて三重の塔の修理が行われた。(昭和の大修理)
平成27年(2015年)から平成30年(2018年)にかけて本地堂の修理が行われた。(平成の大修理)
明治の移築の際に格天井の絵が不規則に並べられていたのを
今回の修理で移築前の状態に戻した。
さらに、塗装や屋根の形状、部屋の間仕切りなど調査で明らかになったものは復元や復原が行われた。



三重塔があるだけで、その一帯が魅力的な空間になる。

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歴史的な建築物に惹かれて(滋賀県・成菩提院と永明寺) [歴史的建築物]

今回は成菩提院(じょうぼだいいん)と永明寺(ようめいじ)を載せたいと思う。

撮影:OLYMPUS OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm/F3.5-5.6

(成菩提院の解説)

滋賀県米原市柏原にある成菩提院は、815年伝教大師最澄が東国に
向う途中この地に草庵を築き逗留したのに始まると伝えられている。
その後、天台宗の学問所にもなり栄え、豊臣秀吉・徳川家康からの
支援を受け、徳川家康の参謀とも言われた天海僧正が20代の
住職に就いている。天海僧正からは家康像(画)も贈られており、
17世紀半頃は最盛期を迎えている。


風化し趣深い山門になっている。

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歴史的な建築物に惹かれて(岐阜県・永保寺と正願寺) [歴史的建築物]

永保寺は庭園が有名で、国宝の観音堂も有するので、
一度撮影したいと思っていた。

撮影:OLYMPUS PEN E-PL9、LUMIX G VARIO 12-60mm
(一部、M.ZUIKO DIGITAL 45mm F1.8使用)


(永保寺の解説)

永保寺(えいほうじ)は、岐阜県多治見市虎渓山町にある臨済宗南禅寺派の寺院。
山号は虎渓山(こけいざん)。 雲水の修行道場(僧堂)である虎渓山専門道場を併設している。
美濃七福神の一つ(寿老人)。


歴史

1295年頃、鎌倉の地で夢窓疎石と元翁本元が修行し、また土岐頼貞との接点が生まれた。
1311年悟後の修行のため甲斐の龍山庵(浄居寺)に一時隠棲していた夢窓疎石は、
1312年元翁本元とともに元翁の故郷である三河の大徳寺に逗留。
1313年土岐頼貞の招きにより、頼貞の父・土岐光定(1281年4月8日没)の33回忌を
定林寺で厳修した。
その後土岐頼貞の別邸または砦があったと推察される長瀬山の麓に庵を結ぶ。
文化3年(1806年)刊の『虎渓山略縁起一人案内』によれば、
正和2年(1313年)6月18日に長瀬山の麓を目指していた夢窓一行が道に迷い、
白馬に乗った女性に道を尋ねた所、返事が無かった。
そこで夢窓は「空蝉(うつせみ)の もぬけのからか 事問えど 山路をだにも 教えざりけり」
と歌を詠んだ。
すると女性は「教ゆとも 誠の道はよもゆかじ 我をみてだに 迷うその身は」
と返歌して忽然と消え失せ、付近の補陀岩上に一寸八分の観世音菩薩像が出現した。
夢窓はこの観世音菩薩像を本尊とし、1314年に水月場(観音堂、国宝)を建立した。
当初「古溪(古渓)」と称していたが、後に中国廬山の虎渓(簡体字: 虎溪(中国語版))に因み
「虎溪山(虎渓山)」と称するようになった。
廬山虎渓の風致が当地に似ているとする記述も見られるが、夢窓が渡航した記録は無く、
むしろ鎌倉建長寺の中国僧一山一寧のもとで修行していたことにより、
当時の廬山での禅修行の風致を虎渓山に求めたものと推察される。
1317年に夢窓は京都の北山に隠棲、更に土佐へ移り、1319年には鎌倉へ、
1325年に後醍醐天皇の命により南禅寺第9世として南禅寺に住持することとなる。
一方、元翁本元は夢窓の去った虎渓の地を守り暫く留まっていたが、
1329年には南禅寺第11世として南禅寺に住持した。
元翁本元が南禅寺に住持している時、後醍醐天皇の皇子世良親王の帰依を受けていたが、
親王亡き後、後醍醐天皇が親王の御所を臨川寺とし、
元翁本元を開山として迎えることとなった。
この時点では虎渓山開山は夢窓疎石であり、臨川寺開山が元翁本元であるが、
南北朝争乱により後醍醐天皇は隠岐に流され、元翁と臨川寺は外護者を失うこととなり、
元徳3年(1331年)元翁は南禅寺を去り、翌正慶元年(1332年)に没した。
後醍醐天皇は1333年に京都に戻り、夢窓疎石を再び南禅寺の住持に迎えるとともに、
改めて臨川寺の開山とした。
これにより、当初夢窓を開山とした虎渓山永保寺は夢窓疎石を開創とし、
元翁本元を開山とするようになった。
後醍醐天皇による建武の新政は足利尊氏によりわずか2年で失敗に終わり、
光明天皇が擁立されて南北朝となり、暦応元年(1338年)に足利尊氏が征夷大将軍となる。
永保寺は暦応2年(1339年)に北朝の光明天皇勅願所とされ、
経済的基盤が確立するとともに、
開山元翁本元の門派が一流相続する独立的存在の門徒寺とされた。
永保寺の歴代は3世の果山正位以後、14世の雪庭永立(1554年没)までが
塔頭の保寿院世代と同一であり、その後320年間にわたり塔頭寺院による輪番で護持されてきた。
天保元年(1830年)、開山仏徳禅師500年遠諱の際、春応禅悦により僧堂が開かれるが、明治初めの社寺上知令により衰退した。
明治8年(1879年)永保寺独住1世として保寿院24世の蕙芳惠薫が任命され、
明治14年(1881年)開山仏徳禅師550年遠諱の際に、柏樹軒潭海玄昌を永保寺住持に迎え僧堂を再開した。これ以後、僧堂師家が永保寺住職を務めている。


境内

●観音堂(国宝)
一重裳階(もこし)付き、入母屋造檜皮葺きの仏殿。南北朝時代。
「水月場」とも称し、本尊の聖観世音菩薩坐像(毎年3月15日公開)が安置されている。
本建物は外観は禅宗様を基調としつつ、
細部には和様の要素が濃い特異な建築である。
軒裏は垂木を見せない「板軒」とするのも珍しい手法である。
●開山堂(国宝)
入母屋造檜皮葺き。南北朝時代。
永保寺開創の夢窓国師および開山仏徳禅師の頂相が安置されている。
堂内は石敷きの土間に化粧屋根裏とするなど、本格的な禅宗様の意匠になる。


観音堂(国宝)

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国の名勝「永保寺庭園 無際橋」

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歴史的な建築物に惹かれて(愛知県・長光寺、性海寺と妙興寺) [歴史的建築物]

今回は地蔵堂で有名な長光寺と多宝塔や紫陽花で有名な性海寺、
そして一宮の大寺の妙興寺の写真を載せたいと思う。


撮影:OLYMPUS PEN E-PL9、LUMIX G VARIO 12-60mm
(一部、M.ZUIKO DIGITAL 45mm F1.8使用)

(長光寺の解説)

長光寺(ちょうこうじ)は、愛知県稲沢市にある臨済宗妙心寺派の寺院。

仁寿元年(851年)小野篁が陸奥の国に下る途中、この辺りに駐杖した際、
路傍に地蔵像を安置したのが始まりと伝わる。
1161年、尾張守であった平頼盛が病気平癒のお礼に六角堂を寄進した。
1336年、足利尊氏が戦のため上洛する際に太刀を奉納して武運を祈願し、
勝利したお礼に六角堂を祈願所として定めた。
1338年に尊氏が将軍宣下を受けると、山門などを奉納して再興している。
その後、織田氏・徳川家康・尾張徳川家によって庇護された。

●重要文化財
〇地蔵堂(六角堂) - 室町時代(1510年)建立
〇鉄造地蔵菩薩立像 - 鎌倉時代、文暦□年(二年)年銘(1235年)

楼門

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重要文化財の地蔵堂

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長光寺の境内にて撮影。

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歴史的な建築物に惹かれて(岐阜県・清水寺、龍福寺と龍門寺) [歴史的建築物]

今回は岐阜県の清水寺と龍門寺の写真を載せたいと思う。

この奥に岐阜県の清水寺がある。

撮影:OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm
(一部 M.ZUIKO DIGITAL 45mm F1.8使用)


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(清水寺の解説)

清水寺(きよみずでら)は岐阜県加茂郡富加町にある臨済宗妙心寺派の寺院。
加治田城城下町の加治田山山麓に位置する。山号は白華山(はっかさん)。
本尊は十一面観音。美濃三十三観音霊場第二十六番札所である。
日本全国でも京都音羽山清水寺と同じ縁起であり、
唯一の兄弟姉妹富加町加治田白華山清水寺だけが歴史・霊地として存在している。
1200年鎮座する古刹として歴史価値が深い貴重な清水寺である。

寺所蔵の『白華山清水寺縁起』によれば、大同3年(808年)、京都東山の清水寺と同じく、
延鎮を開山、坂上田村麻呂を開基として創建されたと伝承する。
伝承によれば、延鎮は行叡居士(京都清水寺の草創に関わりのある老仙人)の
行先を求めて東の方へ、東の方へと行き、美濃の国に入ると東の山に光が見えてきた。
光を目指して進むと加治田に入り、白華山で行叡居士と再会。延鎮は霊地であると思い、
坂上田村麻呂に願い出て、寺を建造した。
これが加治田白華山清水寺であるという。
加治田の清水寺はもと真言宗に属したが、江戸時代半ばに臨済宗に改宗している。


二天門

特徴的な山門で、これが撮りたかった。

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歴史的な建築物に惹かれて(岐阜県・華厳寺) [歴史的建築物]

今回は華厳寺の写真を載せたいと思う。
美濃の古刹として華厳寺と横蔵寺は有名。

撮影:OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm

(華厳寺の解説)

華厳寺(けごんじ)は、岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積にある天台宗の寺院。
山号は谷汲山(たにぐみさん)。本尊は十一面観世音菩薩(十一面観音)、
脇侍として不動明王と毘沙門天を安置する。
西国三十三所第33番札所、満願結願の寺院で桜、
紅葉の名所としても知られ多くの観光客で賑わう。


永禄3年(1560年)成立の『谷汲山根元由来記』によると、
華厳寺は延暦17年(798年)、会津黒河郷の豪族大口大領なる人物によって
創建されたという。
『由来記』によれば、大口大領は都の仏師に依頼して自らの信仰する
十一面観音(十一面観世音菩薩)の像を造立した。
彼は観音像とともに会津に帰ろうとしていたが、途中、
美濃国の赤坂(現・岐阜県大垣市)で観音像が動かなくなってしまった。
赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、
大口大領は同地に草庵を建立。
延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人(ぶねんしょうにん)の
協力を得て華厳寺を建立した。
延暦20年(801年)、桓武天皇の勅願寺となり、延喜17年(917年)には
醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜。
天慶7年(944年)には朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め、
仏具・福田として一万五千石を与えたという。
「谷汲山」という山号については、寺付近の谷から油が湧き出し、
仏前の灯明用の油が汲めども尽きなかったことに由来する。
西国三十三所霊場の中興者と伝承される花山法皇は徒歩で巡幸し、
当寺を第三十三番札所の満願所と定め、禅衣(笈摺)、杖、
および三首の御詠歌を奉納したと伝え、鎌倉時代には後白河法皇が
花山法皇の跡を慕って同行千有余人を従えて巡幸したという。
なお、西国三十三所巡礼について触れた最も古い史料である
『寺門高僧記』所収の「行尊伝」および「覚忠伝」では、
第三十三番の霊場は三室戸寺になっており、園城寺(三井寺)の僧・覚忠が
三十三所霊場を巡礼した応保元年(1161年)には、華厳寺は満願所ではなかった。
また、三種の御詠歌(後出)のうち、「世を照らす」の歌は作者が判明しており、
花山法皇ではなく、前出の覚忠の作歌である。
建武元年(1334年)足利氏と新田氏の戦乱が起こり、
新田氏一族堀口美濃守貞満の乱をはじめとする戦乱で
幾度となく諸堂伽藍を焼失するが、本尊ならびに脇侍等は山中に移し難を逃れた。
文明11年(1479年)、観音菩薩の夢告を受けた薩摩国鹿児島慈眼寺住職道破拾穀により、
再興されたと伝えられている。


総門をくぐると、左右にソメイヨシノの桜並木、土産物店、飲食店、
旅館などの立ち並ぶ参道が続き、距離にして約1km、徒歩10分ほどで仁王門に達する。
仁王門から本堂まではゆるやかな登りの石畳の参道となり、
右手には放生池、地蔵堂、茶所、一乗院、十王堂、羅漢堂、英霊堂、
三十三所観音堂、左手には法輪院、明王院、一切経堂、観音勢至像、本坊などがあり、
本坊の一画には大師堂、内仏客殿、庫裏が建つ。
参道突き当りの石段を上ると本堂があり、その右手に鐘楼堂、
本堂背後には阿弥陀堂、笈摺堂、子安堂、
そこからさらに石段を上った先に満願堂が建つ。
このほか、満願堂から徒歩約1時間ほどのところに奥の院がある。
山内には他に妙法ヶ滝、「菅原道真参籠の岩屋」などがある。




仁王門

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仁王門

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百度石と焼香堂

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