風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。
僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。歴史的な建築物に惹かれて(岐阜県・横蔵寺) [歴史的建築物]
今回は美濃のあたりでは有名なお寺、横蔵寺を載せたいと思う。
特に紅葉の美しさで知られており、大勢の観光客がツアーバスでやってくる。
ミイラも安置されていて、
子供のころに親に連れていかれたことを記憶している。
今回訪ねてみて、風化した建物に歴史がしみ込んでいる感じがして、
わくわくしながら撮影した。
最近アップした日龍峯寺(高澤観音)もこんな素敵なお寺は他にないなと思うが、
横蔵寺も負けてはいないなと感じた。
撮影:OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm
(一部M.ZUIKO ED 60mm F2.8 Macro使用)
(横蔵寺の解説)
横蔵寺(よこくらじ)は岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原にある天台宗寺院。
山号は両界山、本尊は薬師如来。西美濃三十三霊場第一番札所。
重要文化財を含む多数の文化財を有し、「美濃の正倉院」とも呼ばれる。
紅葉の名所でもあり秋の行楽シーズンには特に多くの参拝客が訪れる。
このシーズンに「横蔵寺もみじまつり」が開催されライトアップが行われている。
西国三十三所観音霊場の最後(33番)の札所である谷汲山華厳寺の西方、
さらに奥まった山間の小さな盆地に位置する。
平安時代 - 鎌倉時代の仏像等、多くの文化財を有する古寺であるが、
草創や沿革については史料が乏しく、
平安時代末期ころまでの寺史はほとんど不明といってよい。
寺伝によれば、横蔵寺は日本天台宗の宗祖・最澄が
自作の薬師如来を安置して創建した寺とされている。
伝承によれば、最澄は比叡山延暦寺を開創する際に、
本尊薬師如来像を自ら刻んだが、その薬師如来像を造ったのと同じ霊木から、
もう1体の薬師如来像を造った。
最澄は、その2体目の薬師如来像を
笈(おい、山伏や山林修行者が背中に背負う箱状のもの)に入れて背負いながら
諸国を旅したが、延暦22年(803年)、横蔵寺のある地まで来た時に
薬師如来像が動かなくなったので、
ここに一寺を建立して薬師如来像を祀ることにし、
地元の三和次郎大夫藤原助基が寺を建立したという(創建年は801年あるいは805年とも)。
最澄自ら、笈を背負って都から遠く離れた美濃の山奥までやって来たというのは、
史実として信じることはできないが、
当寺が延暦寺と関係の深い寺院であることを示唆しているといえよう。
なお、創建当時の横蔵寺は現在地からさらに1.5キロメートルほど
奥に入った円山の頂上付近にあり、現在地に移ったのは近世初期である。
鎌倉時代には38坊を有する大寺院だったというが、
鎌倉時代 - 室町時代の寺史も、断片的にしかわかっていない。
横蔵寺に言及した中世以前の文献としては、
鎌倉時代後期の禅僧・無住の著である仏教説話集『沙石集』に
「横倉薬師」の霊験について記しているのが挙げられる程度である。
横蔵寺三重塔(岐阜県指定重要文化財)
現存する仏像の中で、大日如来像(重要文化財)には
平安時代最末期の寿永2年(1183年)の銘があり、
同年、三重塔の本尊として仏師筑前講師により造立されたことが明らかである 。
また、金剛力士(仁王)像には、建長8年(1256年)の銘があり、
作者は鎌倉時代を代表する仏師の一人である肥後別当定慶であることがわかっている。
寺史に関する史料の乏しい中で、これらの仏像の像内銘は貴重なものである。
元亀2年(1571年)、織田信長の兵火で焼失し、
現在ある本堂、三重塔、仁王門などの主要伽藍は江戸時代の復興である。
織田信長の比叡山焼き討ちによって、延暦寺の伽藍が灰になった後、
横蔵寺の本尊薬師如来像は、「延暦寺本尊と同じ霊木から造られた、最澄自作の像」
という由緒ある像だということで延暦寺に移された。
その代わりに、洛北の御菩薩池(みぞろがいけ、現・京都市北区の深泥池)から移されたのが、
横蔵寺の現本尊である薬師如来像であるという。
仁王門前には大きな杉の木がある。
仁王門
仁王門を横位置で。
仁王門をくぐってすぐに三重塔を撮影。
仁王門
宝篋印塔(ほうきょういんとう)
手前は香堂
本堂
本堂
本堂
本堂
観音堂はこの1枚だけ。
舎利堂もあるのだが、古色蒼然とした建物ではないので割愛。
横蔵寺境内にて、シャガを撮影。
これで横蔵寺を後にした。
次に横蔵寺からそれほど遠くない場所にある瑞龍寺に行った。
(瑞龍寺の解説)
岐阜県揖斐川町瑞岩寺にある瑞龍寺(ずいりゅうじ)は、1336年守護大名・土岐頼康
が父・土岐頼清の菩提を弔うために鎌倉の大林善育を開山に迎えて開創
し、土岐頼康の菩提寺にもなった。
土岐頼康は南北朝時代に美濃・尾張・伊勢の守護大名で、土岐氏の全盛期
を築いている。
1353年後光厳天皇の揖斐川小倉への行幸にも関係し、勅額を頂き
勅願道場として栄えた。
江戸時代には大垣城主の庇護を受け、城主岡部長盛の墓もある。
山麓に佇む名刹としての風情が漂う里寺の典型といえよう。
境内には、奈良時代にこの地を訪れたと伝えられる行基ゆかりの
<大岩さん>と呼ばれる紫雲石がどっかりと腰をおろしている。
お寺にはいろいろな謂れのあるものがあって楽しい。
瑞龍寺の境内にてジャーマンアイリスを撮影。
ボタンを撮影。
次に禅蔵寺を撮影。
岐阜県池田町の池田山(924m)山麓にある禅蔵寺は、1356年
土岐頼忠によって菩提寺として開創されている。
創建当初は三重塔もある大伽藍であったと言われている。
現在も、三重塔が建立されていた坂本積の石垣が残されている。
土岐頼忠のお墓が向こう側にある。
禅蔵寺には石楠花が咲いていた。
次に美濃安国寺を撮影。
池田山(924m)東麓の茶畑に囲まれて建つ美濃安国寺は、1339年
夢窓国師の勧めにより、南北朝の動乱で亡くなった後醍醐天皇や戦没者の
菩提を弔うために、足利尊氏兄弟が全国66ヶ国に建立した安国寺の
一つで、1340年代に建立されたと伝えられている。
当初は、利生塔など七堂伽藍の大寺であったといわれている。
その後、衰退したが織田信長の次男・信雄の保護などにより再興されている。
現在は、こじんまりとしたお寺であるが、往時が偲ばれる風景を残している。
また、美濃の武士・稲葉氏にもゆかりの寺といわれている。
特に紅葉の美しさで知られており、大勢の観光客がツアーバスでやってくる。
ミイラも安置されていて、
子供のころに親に連れていかれたことを記憶している。
今回訪ねてみて、風化した建物に歴史がしみ込んでいる感じがして、
わくわくしながら撮影した。
最近アップした日龍峯寺(高澤観音)もこんな素敵なお寺は他にないなと思うが、
横蔵寺も負けてはいないなと感じた。
撮影:OM-D E-M10 MarkIII、LUMIX G VARIO 12-60mm
(一部M.ZUIKO ED 60mm F2.8 Macro使用)
(横蔵寺の解説)
横蔵寺(よこくらじ)は岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原にある天台宗寺院。
山号は両界山、本尊は薬師如来。西美濃三十三霊場第一番札所。
重要文化財を含む多数の文化財を有し、「美濃の正倉院」とも呼ばれる。
紅葉の名所でもあり秋の行楽シーズンには特に多くの参拝客が訪れる。
このシーズンに「横蔵寺もみじまつり」が開催されライトアップが行われている。
西国三十三所観音霊場の最後(33番)の札所である谷汲山華厳寺の西方、
さらに奥まった山間の小さな盆地に位置する。
平安時代 - 鎌倉時代の仏像等、多くの文化財を有する古寺であるが、
草創や沿革については史料が乏しく、
平安時代末期ころまでの寺史はほとんど不明といってよい。
寺伝によれば、横蔵寺は日本天台宗の宗祖・最澄が
自作の薬師如来を安置して創建した寺とされている。
伝承によれば、最澄は比叡山延暦寺を開創する際に、
本尊薬師如来像を自ら刻んだが、その薬師如来像を造ったのと同じ霊木から、
もう1体の薬師如来像を造った。
最澄は、その2体目の薬師如来像を
笈(おい、山伏や山林修行者が背中に背負う箱状のもの)に入れて背負いながら
諸国を旅したが、延暦22年(803年)、横蔵寺のある地まで来た時に
薬師如来像が動かなくなったので、
ここに一寺を建立して薬師如来像を祀ることにし、
地元の三和次郎大夫藤原助基が寺を建立したという(創建年は801年あるいは805年とも)。
最澄自ら、笈を背負って都から遠く離れた美濃の山奥までやって来たというのは、
史実として信じることはできないが、
当寺が延暦寺と関係の深い寺院であることを示唆しているといえよう。
なお、創建当時の横蔵寺は現在地からさらに1.5キロメートルほど
奥に入った円山の頂上付近にあり、現在地に移ったのは近世初期である。
鎌倉時代には38坊を有する大寺院だったというが、
鎌倉時代 - 室町時代の寺史も、断片的にしかわかっていない。
横蔵寺に言及した中世以前の文献としては、
鎌倉時代後期の禅僧・無住の著である仏教説話集『沙石集』に
「横倉薬師」の霊験について記しているのが挙げられる程度である。
横蔵寺三重塔(岐阜県指定重要文化財)
現存する仏像の中で、大日如来像(重要文化財)には
平安時代最末期の寿永2年(1183年)の銘があり、
同年、三重塔の本尊として仏師筑前講師により造立されたことが明らかである 。
また、金剛力士(仁王)像には、建長8年(1256年)の銘があり、
作者は鎌倉時代を代表する仏師の一人である肥後別当定慶であることがわかっている。
寺史に関する史料の乏しい中で、これらの仏像の像内銘は貴重なものである。
元亀2年(1571年)、織田信長の兵火で焼失し、
現在ある本堂、三重塔、仁王門などの主要伽藍は江戸時代の復興である。
織田信長の比叡山焼き討ちによって、延暦寺の伽藍が灰になった後、
横蔵寺の本尊薬師如来像は、「延暦寺本尊と同じ霊木から造られた、最澄自作の像」
という由緒ある像だということで延暦寺に移された。
その代わりに、洛北の御菩薩池(みぞろがいけ、現・京都市北区の深泥池)から移されたのが、
横蔵寺の現本尊である薬師如来像であるという。
仁王門前には大きな杉の木がある。
仁王門
仁王門を横位置で。
仁王門をくぐってすぐに三重塔を撮影。
仁王門
宝篋印塔(ほうきょういんとう)
手前は香堂
本堂
本堂
本堂
本堂
観音堂はこの1枚だけ。
舎利堂もあるのだが、古色蒼然とした建物ではないので割愛。
横蔵寺境内にて、シャガを撮影。
これで横蔵寺を後にした。
次に横蔵寺からそれほど遠くない場所にある瑞龍寺に行った。
(瑞龍寺の解説)
岐阜県揖斐川町瑞岩寺にある瑞龍寺(ずいりゅうじ)は、1336年守護大名・土岐頼康
が父・土岐頼清の菩提を弔うために鎌倉の大林善育を開山に迎えて開創
し、土岐頼康の菩提寺にもなった。
土岐頼康は南北朝時代に美濃・尾張・伊勢の守護大名で、土岐氏の全盛期
を築いている。
1353年後光厳天皇の揖斐川小倉への行幸にも関係し、勅額を頂き
勅願道場として栄えた。
江戸時代には大垣城主の庇護を受け、城主岡部長盛の墓もある。
山麓に佇む名刹としての風情が漂う里寺の典型といえよう。
境内には、奈良時代にこの地を訪れたと伝えられる行基ゆかりの
<大岩さん>と呼ばれる紫雲石がどっかりと腰をおろしている。
お寺にはいろいろな謂れのあるものがあって楽しい。
瑞龍寺の境内にてジャーマンアイリスを撮影。
ボタンを撮影。
次に禅蔵寺を撮影。
岐阜県池田町の池田山(924m)山麓にある禅蔵寺は、1356年
土岐頼忠によって菩提寺として開創されている。
創建当初は三重塔もある大伽藍であったと言われている。
現在も、三重塔が建立されていた坂本積の石垣が残されている。
土岐頼忠のお墓が向こう側にある。
禅蔵寺には石楠花が咲いていた。
次に美濃安国寺を撮影。
池田山(924m)東麓の茶畑に囲まれて建つ美濃安国寺は、1339年
夢窓国師の勧めにより、南北朝の動乱で亡くなった後醍醐天皇や戦没者の
菩提を弔うために、足利尊氏兄弟が全国66ヶ国に建立した安国寺の
一つで、1340年代に建立されたと伝えられている。
当初は、利生塔など七堂伽藍の大寺であったといわれている。
その後、衰退したが織田信長の次男・信雄の保護などにより再興されている。
現在は、こじんまりとしたお寺であるが、往時が偲ばれる風景を残している。
また、美濃の武士・稲葉氏にもゆかりの寺といわれている。
圧倒されます。歴史にかなうものはありません。
by katakiyo (2020-04-30 18:25)
katakiyoさん、コメントありがとうございます。
昔はお寺は生活の中心にあったと思うので、
地方の豪族や大名に保護され、
お金を使ってくれたと思うのですが、
今はもう誰も見向きもしなくなりました。
廃れていく一方で、寂しい気もしますが、
その廃れていく様に歴史を感じますよね。
by minsuke (2020-04-30 19:57)
ご訪問ありがとうございました\(^o^)/
美濃はいま斎藤道三の絡みで目下注目中です 笑
岐阜には一度だけ、飛騨高山への旅行で訪れました。
横蔵寺、素晴らしいですね!
まずは杉の大木に圧倒されました。
美濃の正倉院と言われているのも納得、素晴らしい建築物ですね。
by ミケシマ (2020-04-30 21:19)
ミケシマさん、コメントありがとうございました。
土岐頼純は斎藤道三に多分毒殺されているようですね。
土岐氏ゆかりのお寺はこの辺り多いです。
今回の瑞龍寺、禅蔵寺もそうです。
横蔵寺はいいお寺です。
本堂は大きいし、三重塔まであるし、
仁王門も格好いいです。
風化具合も素晴らしいです。
横蔵寺の近くの華厳寺もまた素晴らしいですけどね。
by minsuke (2020-04-30 21:55)
どーんと構えていて心が癒やされます。
早くコロナが落ち着いてこういう所に行きたいなあ〜
普段は引きこもっていてもストレス感じてませんが、写真を見ると行きたくなりますね^m^
澄んだ空気を味わってみたい!
by リュカ (2020-05-01 09:40)
歴史の重みを感じますね。こういう場所大好きです。
by JUNKO (2020-05-01 13:34)
リュカさん、コメントありがとうございます。
僕の写真が旅心を刺激できてうれしい限りです。
今はちょっと不謹慎かもしれませんが。(汗)
古色蒼然とした様は癒されますよね。
by minsuke (2020-05-02 13:59)
JUNKOさん、コメントありがとうございます。
古色蒼然とした様に歴史を感じますね。
鎌倉時代には38坊を有する大寺院だったらしく、
その雰囲気が残ってるんですよね。
なかなか他にないです。
岐阜にあっても5つぐらいでしょうか。
by minsuke (2020-05-02 14:03)