風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。
僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。山の辺の道をひたすら歩く。(3部) [奈良]
(今回のBGM)
続きを載せたいと思う。
撮影:PENTAX K-5、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO OS HSM
長岳寺に着いた。
奈良県天理市柳本町にある高野山真言宗の寺。
通称、釜口大師とよばれる。
本尊は阿弥陀三尊。
824年に淳和天皇の勅願により
弘法大師空海が創建したと伝え、
もと大和(おおやまと)神社の神宮寺であったという。
鎌倉時代には興福寺大乗院の末寺となったが、
1602年徳川家康から朱印寺領100石を寄進された。
江戸時代末より大師信仰の中心地として知られている。
五智堂、延命殿、庫裡、鐘楼門はいずれも国の重要文化財。
すごく人懐っこい猫がいて、どこうとしなかった。
鐘楼門で、国の重要文化財である。
柿本人麻呂の歌碑
中山観音堂
中山廃寺あたり。
念仏寺が見えてきた。
このお寺の墓地の墓ばかりの場所を山の辺の道は通っているので、
ちょっと急ぎ足になってしまう。
墓ばかりのところを抜けると池がある。
このあたりは池が散在しているようだ。
衾田稜が見えてきた。
古墳名は西殿塚古墳(にしとのつかこふん)、4世紀前半の前方後円墳で、
全長219m、前方部がバチ形となり、最古級の大型前方後円墳の一つ。
この古墳は、第26代継体天皇の皇后、
手白香皇女衾田陵(たしらかこうじょふすまだりょう)とされている。
萱生環濠集落(かよかんごうしゅうらく)
竹之内町と萱生町(かよちょう)には、
周囲に濠を巡らした環濠集落と呼ばれる形が、今に残っている。
中世から近世にかけて、集落の自衛のため、
また一部は灌漑用として利用していた。
この地域から東方の竜王山(りゅうおうざん)にかけて、
古墳が数多く築かれており、ヤマト王権を考える上で重要な所。
写真を撮っていたら、わーという感じで金魚が水面に浮かんできた。
奈良は金魚の養殖が盛んであったことを思い出した。
竹之内環濠集落(たけのうちかんごうしゅうらく)
夜都伎神社の鳥居が見えてきた。
この神社は、昔から奈良春日神社に縁故が深く、
明治維新までは当社から蓮の御供えと称する新饌を献供し、
春日から60年毎に若宮社殿と鳥居を下げられるのが
例となっていたと伝える。
現在の本殿は明治39年改築したもので
春日造桧皮葺、高欄、浜床、向拝付彩色7色の
華麗な同形の四社殿が末社の琴平神社と列んで本当に美しい。
拝殿は萱葺でこの地方では珍しい神社建築である。
この神社の横には池がある。
内山(うちやま)永久寺跡
内山永久寺は、真言宗に属し、阿弥陀如来を安置していた。
そのむかし、鳥羽天皇の勅願によって創立せられた時の
年号によって永久寺と称え、
その地は五鈷杵(ごこしよ)の形をして
内に一つの山があったので内山と号したという。
鎌倉時代の古文書によって寺運の隆盛が偲ばれ、
後醍醐天皇も一時当寺に立寄られている。
寺領は971石で、境内は五町四方の広大な地域をしめ、
江戸時代末期まで40有余坊の伽藍があり、
上街道の浄国寺北側より永久寺西門に至る間に
石畳を敷いて参詣者は常に絶えなかったという。
明治維新に寺領の返還・境内土地・伽藍売却などの変事があり、
さしも盛大であった当寺も、
明治7年より同9年までの間に、
大和の日光といわれた豪華な堂坊も
礎石から瓦一枚に至るまでとりのぞかれ、
いま僅かに田園の中に当時の面影を残す、本堂池と萱御所跡の碑のみで、
貴重な仏像・障壁画・仏画等は散失し、
一部国外までもいっている。
目に映るものは池ばかり。
4年ほど前に来たときには、ここまで整備された池ではなく、
うらぶれたという感じがあって、廃寺跡にはふさわしい雰囲気があった。
石上神宮
放し飼いの鶏
楼門が見える。
巫女さんが舞の練習をしているようだ。
続きを載せたいと思う。
撮影:PENTAX K-5、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO OS HSM
長岳寺に着いた。
奈良県天理市柳本町にある高野山真言宗の寺。
通称、釜口大師とよばれる。
本尊は阿弥陀三尊。
824年に淳和天皇の勅願により
弘法大師空海が創建したと伝え、
もと大和(おおやまと)神社の神宮寺であったという。
鎌倉時代には興福寺大乗院の末寺となったが、
1602年徳川家康から朱印寺領100石を寄進された。
江戸時代末より大師信仰の中心地として知られている。
五智堂、延命殿、庫裡、鐘楼門はいずれも国の重要文化財。
すごく人懐っこい猫がいて、どこうとしなかった。
鐘楼門で、国の重要文化財である。
柿本人麻呂の歌碑
中山観音堂
中山廃寺あたり。
念仏寺が見えてきた。
このお寺の墓地の墓ばかりの場所を山の辺の道は通っているので、
ちょっと急ぎ足になってしまう。
墓ばかりのところを抜けると池がある。
このあたりは池が散在しているようだ。
衾田稜が見えてきた。
古墳名は西殿塚古墳(にしとのつかこふん)、4世紀前半の前方後円墳で、
全長219m、前方部がバチ形となり、最古級の大型前方後円墳の一つ。
この古墳は、第26代継体天皇の皇后、
手白香皇女衾田陵(たしらかこうじょふすまだりょう)とされている。
萱生環濠集落(かよかんごうしゅうらく)
竹之内町と萱生町(かよちょう)には、
周囲に濠を巡らした環濠集落と呼ばれる形が、今に残っている。
中世から近世にかけて、集落の自衛のため、
また一部は灌漑用として利用していた。
この地域から東方の竜王山(りゅうおうざん)にかけて、
古墳が数多く築かれており、ヤマト王権を考える上で重要な所。
写真を撮っていたら、わーという感じで金魚が水面に浮かんできた。
奈良は金魚の養殖が盛んであったことを思い出した。
竹之内環濠集落(たけのうちかんごうしゅうらく)
夜都伎神社の鳥居が見えてきた。
この神社は、昔から奈良春日神社に縁故が深く、
明治維新までは当社から蓮の御供えと称する新饌を献供し、
春日から60年毎に若宮社殿と鳥居を下げられるのが
例となっていたと伝える。
現在の本殿は明治39年改築したもので
春日造桧皮葺、高欄、浜床、向拝付彩色7色の
華麗な同形の四社殿が末社の琴平神社と列んで本当に美しい。
拝殿は萱葺でこの地方では珍しい神社建築である。
この神社の横には池がある。
内山(うちやま)永久寺跡
内山永久寺は、真言宗に属し、阿弥陀如来を安置していた。
そのむかし、鳥羽天皇の勅願によって創立せられた時の
年号によって永久寺と称え、
その地は五鈷杵(ごこしよ)の形をして
内に一つの山があったので内山と号したという。
鎌倉時代の古文書によって寺運の隆盛が偲ばれ、
後醍醐天皇も一時当寺に立寄られている。
寺領は971石で、境内は五町四方の広大な地域をしめ、
江戸時代末期まで40有余坊の伽藍があり、
上街道の浄国寺北側より永久寺西門に至る間に
石畳を敷いて参詣者は常に絶えなかったという。
明治維新に寺領の返還・境内土地・伽藍売却などの変事があり、
さしも盛大であった当寺も、
明治7年より同9年までの間に、
大和の日光といわれた豪華な堂坊も
礎石から瓦一枚に至るまでとりのぞかれ、
いま僅かに田園の中に当時の面影を残す、本堂池と萱御所跡の碑のみで、
貴重な仏像・障壁画・仏画等は散失し、
一部国外までもいっている。
目に映るものは池ばかり。
4年ほど前に来たときには、ここまで整備された池ではなく、
うらぶれたという感じがあって、廃寺跡にはふさわしい雰囲気があった。
石上神宮
放し飼いの鶏
楼門が見える。
巫女さんが舞の練習をしているようだ。
森に囲まれて、落ち着いた佇まいの石上神宮
柱の向こうに見える、巫女さんの舞がいい雰囲気ですね~!
by あおたけ (2013-08-04 20:05)