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風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。

僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。

山の辺の道をひたすら歩く。(2部) [奈良]


続きを載せたいと思う。

撮影:PENTAX K-5、SIGMA 17-70mm F2.8-4 DC MACRO OS HSM

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玄賓庵の白壁

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玄賓庵の白壁と門

玄賓庵(げんびあん)
山の辺の道は現在、東海自然歩道となっており、道標が非常によく整備されている。
この道標にしたがって歩いてゆくと、白壁が現れ趣のある門が見えてくる。
これが玄賓庵(げんびあん)である。
玄賓は平安初期の僧で、もと興福寺に住み学徳一世にきこえたが、
名利を避けて三輪山麓に隠棲したのがこの庵である。
ここには重要文化財の不動明王像が伝わっている。
玄賓庵の先の山の辺の道も、いかにも古道という感じで趣がある。

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本堂

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玄賓庵(げんびあん)にはカエルの石造がある。

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桧原(ひばら)神社

やがて、道は桧原神社の前に出る。
桧原神社は大神神社の摂社で、天照大御神を祀る。
この神社は「元伊勢」とも呼ばれるが、説明板にその由来が書いてある。
それによると、「第十代崇神天皇の時代まで、
皇祖である天照大御神は宮中にて『同床共殿』でお祀りされていた。
同天皇の時代に初めて宮中を離れ、この『倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)』に祀られた。
その後、大御神は伊勢に遷幸したが、
引き続き桧原神社として大御神をお祀りしている。
そのことにより、この地を今に『元伊勢』と呼んでいる。」ということだ。
拝殿前には大神神社と同じく三ツ鳥居が建っており、
その周りには朱色の水垣がめぐらされ、聖域の感を起こさせる。


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大和の青垣

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蚕でも飼っていたのかな。

蚕を風通しの良い状態で飼育するために換気を良くする櫓(やぐら)だろうか。

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相撲神社

『日本書紀』は第11代垂仁天皇7年のこととして、次のような逸話を伝えている。
その頃、當麻邑に當麻蹶速(たいまのけはや)という力自慢がいて、
何とかして強力な者と命がけで力比べをしたいと言っていた。
そのことを聞いた天皇は、當麻蹶速に勝る者を探させた。
そして見つけだしたのが出雲の国の野見宿禰である。
早速二人による我が国初の天覧相撲がこの地で催された。
試合の結果は野見宿禰の圧勝に終わった。
當麻蹶速のあばら骨を踏み砕き、腰を踏みくじいて殺してしまった。
天皇は當麻蹶速の土地を没収して、野見宿禰に与えられた。
野見宿禰はそのままとどまって天皇に仕えたという。
だが、この説話は、この辺りの腰折田(山裾の折れ曲がった田)の語源説話のような気がする。
この「カタヤケシ」に、かつての大横綱の大鵬と柏戸がやって来て、土俵入りをしたことある。

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ミカン畑

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相撲神社から穴師坐大兵主神社へ。

すぐ近くにある。

大和平野の開拓は、その周囲山麓地帯からはじまったと考えられ、
当社のすぐ西には垂仁、景行両天皇皇居跡があり、
また少し西北には祟神、景行両天皇陵もある。
さらに、日本最古の道路である「山の辺の道」は南方三輪海柘榴市からはじまって、
その諸陵や皇居跡を通り、天理市を経て奈良市に通じている。
またこの大和古道に、山間部から下りてくる道の交る地点らは古い市の発達がみられ、
当社のすぐ西方も、いわゆる古の「大市」のあったところと考えられる。
したがって、当社附近が、上代大和文化の一中心地域であったのはもちろん、
最も早くひらけたところであって、こゝに大和一国の農耕信仰が集り、
また、国土安穏の平和信仰が集るのは当然であった。
とくに昔「福瀬路は畏き道」として、福瀬谷が大和から東国への一般通路とならなかった前、
纏向川に添い、弓月嶽の麓を通って、大和高原の上に出て伊賀、伊勢に行く道は、
大和と東国を結ぶ重要な交通路であった。
これが重要であるだけに、同時にその大和平野への出口は、
また東国の勢力から大和を渡る要点でもあった。
これが当社がこの地に早く設けられ、国土繁栄(農耕乞雨信仰)、
平和安全(鎮武信仰)の神として重要な国家の祭祀を受けるものであった。
いわば、南隣の三輪山に鎮る大物主神が、出雲系の三輪族の祖神として、
国土開拓神の信仰を集めたのに対応し、
当社は、生産と平和の神としての国家的信仰によって始った神社であるといえる。
有名な野見宿彌の角力の説話が当社にあるのも、
それが天皇の国土統治の象徴として行われた呪術であるとされるように、
当地は、古代大和、ひいては日本の一中心であったのである。

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珠城山(たまきやま)古墳群

このあたりは崇神、垂仁、景行天皇の王宮伝承地となっており、
この纏向珠城宮跡はその一つである。
近くには珠城山(たまきやま)古墳群といわれる古墳群もある。
この先には、景行天皇陵(渋谷向山古墳)、崇神天皇陵(行燈山古墳)などの
巨大前方後円墳があり、王宮伝承地の存在とあわせて、
この三輪山麓地域に初期大和王権が成立したことを示している。

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コガネムシ

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渋谷向山古墳

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ゴーヤ

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山の辺の道を歩いているとところどころに喫茶がある。

ここは以前に入ったことがある。

イスではなく座敷に上がって、そのときはアイスコーヒーを飲んだ。

今回は一人で歩いていたので寄っていない。

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コメント 2

ひろし

会社の近くばかりですが、またしても知らないところばかりで勉強になりました。
でも、すごい距離を歩かれるんですね。
恐れ入るばかりです。
私なんかモデル撮影の移動も車ばかりです。
少しは見習わなければ・・・。
by ひろし (2013-08-02 21:08) 

minsuke

ひろしさん、コメントありがとうございます。

確かに距離は結構歩きましたよ。
カロリズムで35000歩、距離は25キロ、
消費カロリーは1300キロカロリーでした。
歩くことは苦ではないので辛くはなかったです。
ただ熱中症が気になったので、こまめに水分は補給していました。
by minsuke (2013-08-02 22:49) 

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