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風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。

僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。

夏景色その9(山の辺の道) [夏景色シリーズ]

今回は、昨年8月の終わりに撮影した山の辺の道の写真を載せたいと思う。

最近見直して抜粋してみたが、

まだしたりないせいもあって80枚近く並べている。


撮影:NIKON D300


石上神宮から大神神社(おおみわじんじゃ)まで歩いた。

大体15キロほどを写真を撮りながら7時間ぐらいで歩いている。


(山の辺の道の解説)

飛鳥と平城(奈良)を結ぶ古の官道が山の辺の道。
そのうち道がよく整備され、見どころの多いのが天理~桜井で、
休日には大勢のハイカーを迎えている。
野を過ぎ、林を抜け、小鳥のコーラスを聞いて歩く道沿いには、
大和棟の美しい民家、神話の時代からまつられている神社、
おびただしい数の古墳が残り、歴史へのロマンをかきたててくれる。


(石上神宮の解説)

石上神宮(いそのかみじんぐう)は奈良県天理市にある神社。
式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社(現在は神社本庁の別表神社)。
中世には二十二社の中七社のひとつとされた。
尚、『日本書紀』に記された神宮は、伊勢神宮と石上神宮だけであり、
その記述によれば、日本最古設立の神宮となる。

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石上神宮を後にして、内山永久寺に向かった。

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山の辺の道沿いにはいろいろな石碑、石造物などがあり

歩いていても楽しい。

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白いハスが咲いていた。

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内山永久寺跡にて池周りを撮影。

(内山永久寺の解説)

内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)は奈良県天理市杣之内町にかつて存在した寺院である。
日本最古の歴史の道といわれる山の辺の道沿いにある。
永久年間(1113年-1118年)に鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第2世頼実が創建し、


第3世尋範に引き継がれて堂宇の整備が進められた。
このため、当初より興福寺大乗院の末寺としての性格を備え、
また本地垂迹説の流行と共に石上神宮の神宮寺としての性格を備えるようにもなり、
興福寺を支配していた2大院家の一方である大乗院の権威を背景として、
室町期には絶大なる勢力を誇った。

『太平記』によると延元元年・建武3年(1336年)には後醍醐天皇が
一時ここに身を隠したと伝えられ、「萱御所跡」という旧跡が残された。

かつては浄土式回遊庭園を中心に、本堂、灌頂堂、八角多宝塔、三重塔など
最盛期には50以上の堂塔が並ぶ大伽藍を誇り、
江戸時代には971石の朱印地を与えられていた。
大和では東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ待遇を受ける大寺であり、
その規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には「西の日光」とも呼び習わされた。

また、当寺は修験道当山派との関わりも深く、
当山三十六正大先達衆を構成する一寺として、重要な役割を果たしており、
これは修験道が明治の神仏分離令で禁止された結果、
続く廃仏毀釈で当寺が致命的な打撃を被る一因となった。
明治に入って廃仏毀釈の嵐の中で寺領を没収され、
経営基盤を奪われた当寺は廃寺となって僧侶は還俗し、石上神宮の神官となった。
更に、壮麗を極めた堂宇や什宝はことごとく徹底した破壊と略取の対象となった。
この際流出した仏像・仏画・経典等は
いずれも製作当時の工芸技術の精華と言うべき優品揃いであったことが知られている。


海外に流出した宝物の内、
ベルリン民俗学博物館が購入した真然筆と伝えられる真言八祖像などは
第二次世界大戦末期のベルリン市街戦で烏有に帰した。
しかし、日本国内に残存した宝物の大半が、現在重要文化財・国宝指定を受けていることは、
当寺の得ていた富がいかに巨大であったかを物語るものである。
現在では当寺の敷地の大半は農地となり、
本堂池と萱御所跡の碑が往時をしのぶだけである。

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いたるところに句碑がある。

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竹林はいたるところにある。

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みかん畑

他には柿、イチジクなどいろいろな果樹が見られる。

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夜都岐神社にて。

(夜都岐神社の解説)

夜都岐神社(やつぎじんじゃ)は、奈良県天理市にある神社である。
夜都伎神社とも書かれ、「やつき」「やとぎ」などとも読まれる。
春日大社との関係が深く、江戸時代末期まで「蓮の御供」という神饌を献上していた。

春日大社からは、古くなった社殿・鳥居を60年毎に夜都岐神社に
下賜して使用させる伝統があり、
応永13年(1406年)には春日大社の第四殿を下賜されている(春日大社文書)。
また、寛正2年(1461年)4月6日には大乗院の尋尊が参詣に訪れている(大乗院寺社雑事記)。
西には、神宮寺である十来子(じゅうらいし:十羅刹)堂があったが、
現在は乙木集落中の薬師堂に移されている。
拝殿は、この地方では珍しい萱葺である。

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ここまで歩いたコースの地図

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ブルーベリーかな。

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ゴーヤ

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竹之内環濠集落の近く

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萱生環濠集落(かようかんごうしゅうらく)

環濠集落は、南北朝時代から筒井順慶による統一まで、
大和の戦国乱世が生んだ自衛の集落である。
周囲に堀を穿って成立したと考えられている。
溝の内外を土塁により盛り上げ、
さらに外側には竹を植えることにより防衛性を高めた。

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西殿塚古墳「衾田陵」が見えている。

大和古墳群で最大のもの。
4世紀初頭のごく初期の大型前方後円墳で、
古さでは箸墓古墳「大市墓」に準ずると見られている。
全長234mもあり衾田の陵と呼ばれている。
天理市中山町西殿塚にある。
明治9年、継体天皇の皇后・手白香皇女陵に治定されたが、
考古学的知見とは時代が合わないようである。
「邪馬台国」の女王・卑弥呼に続く台代(とよ)の墓ではないかと云われている。
西殿塚古墳は実際にミマキイリヒコ(崇神天皇)が葬られた所と見る説もある。

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念仏寺にて。

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中山廃寺あたり。

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中山廃寺にて。

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万葉学者犬養孝氏の筆になる万葉仮名の歌碑
「衾路(ふすまじ)を引手の山に妹を置きて 山路を行けば生けりともなし」
人麻呂が妻の亡骸を葬った帰途に詠んだ歌。
引き「手の山」とは背後の竜王山

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長岳寺

長岳寺(ちょうがくじ)は奈良県天理市柳本町にある高野山真言宗の寺院。
本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は空海(弘法大師)とされる。
関西花の寺二十五霊場第19番札所。
日本最古の歴史の道といわれる山の辺の道のほぼ中間点に位置している。
釜口大師の名で親しまれている。
天長元年(824年)に淳和天皇の勅願により空海(弘法大師)が
大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺として創建したという。
盛時には48もの塔頭が建ち並んでいた。

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楼門

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放生池越しの本堂を撮影。

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長岳寺近くの風景。

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長岳寺のすぐそば。

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崇神天皇陵

崇神天皇(すじんてんのう)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代の天皇。
現代の日本の学術上、実在の可能性がある程度見込める初めての天皇である。

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櫛山古墳の濠部分

櫛山古墳(くしやまこふん)は、奈良県天理市柳本町に所在する
古墳時代前期後半の双方中円古墳である。

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ここまで歩いたコースの地図

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大和の青垣

桧原神社から北へ向かう「山の辺の道」は、
それまでの山道と違って道幅が広い。
進行方向の左側はミカンをはじめとする果樹園の緩やかな丘陵が下り、
その向こうに大和盆地が広がっていてまことに眺望がよい。
遠方に生駒山や矢田丘陵が横たわり、
右手には纒向や三輪の山々が緑の垣根を作っている。
大和の青垣と言われるゆえんである。

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桧原神社

桧原神社は、万葉集などに「三輪の檜原」と
数多くの歌が詠まれた台地の上にある。
大和国中が一望できる絶好の場所に位置し、
眼下に箸墓の森が見え、二上山の姿も美しい。
かってこの付近は大和の笠縫邑と呼ばれた。
そのため境内には「皇大神宮倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)」と
書いた大きな石碑が立っている。
檜原台地に建つ桧原神社は、大神神社付近の摂社群の中では、
最も北に位置している上に社格も最も高く創建も古い。
天照大神が伊勢神宮に鎮座する前に、宮中からこの地に遷され、
この地で祭祀されていた時代がある。
伊勢神宮へ遷されると、その神蹟を尊崇して、
檜原神社として引き続き天照大神を祀ってきた。
そのため、この神社は広く「元伊勢」の名で親しまれている。
寛政年間の台風によって、檜原神社は大きな被害をこうむり廃墟と化してしまった。
だが廃墟のまま祭礼は行われてきた。
戦後になって、現在のように整備された。
三輪山の中にある磐座をご神体にしているので、
檜原神社には本殿はなく、拝殿もない。
だが、大神神社では見えなかった三輪特有の「三輪鳥居」と
その奥にある神籬(ひもろぎ。神霊が降臨する時の臨時の宿り場所。
小さめの樹木や岩石が選ばれる)などが再建されいる。

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玄賓庵

9世紀、玄賓僧都がここに草庵を結んで世を忍んだといわれ、
謡曲「三輪」の題材となっている。

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ここまで歩いたコースの地図

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狭井神社

大神神社の摂社で狭井神社(さいじんじゃ)がある。
病気平癒で全国的に有名で、ここにある薬井戸から湧き出る水も御神水として
崇められている。

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大神神社

大神神社(おおみわじんじゃ)は奈良県桜井市にある神社である。
式内社(名神大)、大和国一宮で中世には二十二社の中七社のひとつとされた。
三輪明神、三輪神社とも呼ばれる。
大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る。
日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始から存在する理由などから
「日本最古の神社」と称されている。
日本国内で最も古い神社のうちの1つであると考えられている。
三輪山そのものを神体(神体山)として成立した神社であり、
今日でも本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る
古神道(原始神道)の形態を残している。
自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、
三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されている。
拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものであるが、

日本唯一のものではなく、他にも三ツ鳥居は存在する。

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三輪駅近くにて。

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JR三輪駅から天理駅まで引き返して、車に戻った。

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