風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。
僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。そうだ、京都行こう。(1部) [京都]
今回は、京都の写真を載せたいと思う。
電車を使っているので、まずは米原の駅ホームにて。
(pict0000~pict0014の撮影は、Ricoh GR digital2)
ここからは京都駅にて。
名古屋駅よりすごいのかと思ったら、そうでもなかった。
東寺にて。
(ここからの撮影は、PENTAX K7)
東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある東寺真言宗総本山の寺院。
「教王護国寺」とも呼ばれる。山号は八幡山。本尊は薬師如来。
東寺は弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。
中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに
「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、
21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。
昭和9年(1934年)に国史跡に指定、
平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録された。
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と
「西寺」(さいじ)という2つの寺院の建立が計画された。
これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、
さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った
官立寺院であった。
南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、
東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)、
藤原伊勢人という人物が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。
藤原伊勢人という人物については、
公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、
実在を疑問視する向きもあるが、
東寺では古くからこの796年を創建の年としている。
それから20数年後の弘仁14年(823年)、
真言宗の宗祖である弘法大師空海は、嵯峨天皇から東寺を賜った。
この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、
真言密教の根本道場となった。
東寺は平安後期には一時期衰退するが、
鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、
皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。
中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である
宣陽門院(1181年 - 1252年)であった。
宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。
また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、
毎朝食事を捧げる儀式)や
「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を
創始したのも宣陽門院であった。
空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、
21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、
善男善女が参列している。
また、毎月21日の御影供の日には
東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。
中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、
多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。
文明18年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、
豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。
何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、
南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に
整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。
金堂
手前は講堂、奥が金堂。
講堂
撮影:Ricoh GRdigital2、PENTAX K7
続きは明日載せたいと思います。
電車を使っているので、まずは米原の駅ホームにて。
(pict0000~pict0014の撮影は、Ricoh GR digital2)
ここからは京都駅にて。
名古屋駅よりすごいのかと思ったら、そうでもなかった。
東寺にて。
(ここからの撮影は、PENTAX K7)
東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある東寺真言宗総本山の寺院。
「教王護国寺」とも呼ばれる。山号は八幡山。本尊は薬師如来。
東寺は弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。
中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに
「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、
21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。
昭和9年(1934年)に国史跡に指定、
平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録された。
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と
「西寺」(さいじ)という2つの寺院の建立が計画された。
これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、
さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った
官立寺院であった。
南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、
東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)、
藤原伊勢人という人物が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。
藤原伊勢人という人物については、
公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、
実在を疑問視する向きもあるが、
東寺では古くからこの796年を創建の年としている。
それから20数年後の弘仁14年(823年)、
真言宗の宗祖である弘法大師空海は、嵯峨天皇から東寺を賜った。
この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、
真言密教の根本道場となった。
東寺は平安後期には一時期衰退するが、
鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、
皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。
中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である
宣陽門院(1181年 - 1252年)であった。
宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。
また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、
毎朝食事を捧げる儀式)や
「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を
創始したのも宣陽門院であった。
空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、
21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、
善男善女が参列している。
また、毎月21日の御影供の日には
東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。
中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、
多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。
文明18年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、
豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。
何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、
南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に
整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。
金堂
手前は講堂、奥が金堂。
講堂
撮影:Ricoh GRdigital2、PENTAX K7
続きは明日載せたいと思います。
おはようございます。
名古屋もすごいけど、京都もすごいですよ~!
札幌にはそんなとこ・・・ってまた言ってますね(笑)
米原かぁ・・・
そういえばJRは米原行きのがよく来てましたね・・・
懐かしいなぁ・・・
by そらまめ (2009-12-18 09:48)
名古屋駅も京都駅もすごいです♪
京都駅、ヒトが少ないのにびっくり!
去年紅葉時期に京都駅を利用しましたが、
それはもうえらい人混みで、その印象が強く残っています。
やはり京都って、なんとも特別な感じがしますね。
さらっと行けちゃうのが、とてもうらやましいです~。
by soichiro (2009-12-18 11:56)
京都、もうどれだけ行っていないのやら(;^_^A アセアセ・・・
駅前はすっかり変わり、わからない・・・
by green_blue_sky (2009-12-18 12:05)
京都駅、凄いですよ~ホント?って思わず何回も見ちゃった。(*^-^)
名古屋といい、京都といい、もう近未来のようだわ、ああ、こちらは遅れてる・・・・・ここから、京都のお寺巡りが始まるのですよね。なんだか、その差がとっても新鮮です。
by マリエ (2009-12-18 20:10)