SSブログ

風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。

僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。

京都の紅葉(総合版) [京都と奈良・紅葉]

京都はとても混雑するので今年はパスしようかとも思ったが、

紅葉の時期、誰もが訪れてみたいと思うのが京都なので

やはり行ってみることにした。

京都の紅葉で一番人気があるのは清水寺、次は嵐山らしい。

今回行ったのは、2番人気の嵐山であった。

(写真は140枚ほどです。)



渡月橋

pict0002.jpg




大堰川の船着場

pict0003.jpg




pict0004.jpg







pict0006.jpg





pict0007.jpg





pict0008.jpg




ここから天龍寺

pict0009.jpg



天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺
芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。
山号は霊亀山(れいぎざん)。
寺号は詳しくは天龍資聖禅寺(てんりゅうしせいぜんじ)と称する。
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。
足利将軍家と桓武天皇ゆかりの禅寺として壮大な規模と高い格式を誇り、
京都五山の第一位とされてきた。
「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

天龍寺の地には平安時代初期、
嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(786年 - 850年)が開いた檀林寺があった。
その後約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に
後嵯峨天皇(在位1242年 - 1246年)と
その皇子である亀山天皇(在位[[1259年 - 1274年)は離宮を営み、
「亀山殿」と称した。
「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山のことで、
山の姿が亀の甲に似ていることから、この名がある。
天龍寺の山号「霊亀山」もこれにちなむ。
足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、
大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。
尊氏は暦応元年/延元3年(1338年)、征夷大将軍となった。
後醍醐天皇が吉野で死去したのは、その翌年の暦応2年/延元4年(1339年)である。
足利尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して
天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。
いわば「かたき」である後醍醐天皇の死去に際して、
その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、
当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。
寺号は、当初は年号をとって「暦応資聖禅寺」と称する予定であったが、
尊氏の弟・足利直義が、寺の南の大堰川(保津川)に
金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。
寺の建設資金調達のため、
天龍寺船という貿易船(寺社造営料唐船)が仕立てられたことは著名である。
落慶供養は後醍醐天皇七回忌の康永4年(1345年)に行われた。

天龍寺は京都五山の第一として栄え、寺域は約950万平方メートル、
現在の嵐電帷子ノ辻駅(かたびらのつじえき)あたりにまで及ぶ広大なもので、
子院150か寺を数えたという。
しかし、その後のたびたびの火災により、創建当時の建物はことごとく失われた。
中世には延文3年(1358年)、貞治6年(1367年)、応安6年(1373年)、
康暦2年(1380年)、文安4年(1447年)、応仁元年(1467年)と、
6回も火災に遭っている。
応仁の乱による焼失・再建後、しばらくは安泰であったが、
江戸時代の文化12年(1815年)にも焼失、さらに幕末の元治元年(1864年)、
蛤御門の変(禁門の変)で大打撃を受け、
現存伽藍の大部分は明治時代後半以降のものである。
なお、方丈の西側にある夢窓疎石作の庭園(特別名勝・史跡)に
わずかに当初の面影がうかがえる。
方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。

pict0012.jpg





pict0014.jpg





pict0011.jpg






pict0015.jpg



人が多くて建物自体はあまり撮れない。

pict0016.jpg





pict0017.jpg





pict0018.jpg





pict0019.jpg





pict0020.jpg







pict0023.jpg




pict0024.jpg





pict0025.jpg




pict0027.jpg




pict0028.jpg



大文字草

pict0029.jpg





pict0030.jpg





pict0031.jpg






pict0032.jpg






pict0033.jpg





天龍寺はここまで。

pict0034.jpg



天龍寺から常寂光寺に向かった。

天龍寺を出るとすぐに竹林の道が続く。

pict0036.jpg






pict0039.1.jpg






pict0039.2.jpg





pict0041.1.jpg





pict0042.jpg




常寂光寺にて。

常寂光寺は京都府京都市の嵯峨野にある日蓮宗の仏教寺院。
山号は小倉山。

百人一首で詠まれる小倉山の中腹の斜面にあって
境内からは嵯峨野を一望でき、秋は全山紅葉に包まれる。
その常寂光土のような風情から寺号がつけられたとされる。
平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」があったと伝わる地で、
安土桃山時代末の慶長元年(1596年)に日蓮宗大本山本圀寺十六世日禎が
隠棲の地として当山を開いた。
歌人でもある日禎に小倉山の麓の土地を寄進したのは角倉了以と角倉栄可で、
小早川秀秋ら大名の寄進により堂塔伽藍が整備された。



仁王門 - 南北朝時代の貞和年間に本圀寺の南門として建立、
元和2年(1616年)に現在地に移築、藁葺き
仁王像 - 福井県小浜の日蓮宗寺院・長源寺から移された。
寺伝に運慶作というが実際の作者は不明

pict0047.jpg






pict0045.jpg




pict0048.jpg





pict0049.jpg




人が多くて建物は中途半端にしか撮っていない。

pict0052.jpg





pict0053.jpg





pict0054.jpg





pict0059.jpg





pict0060.jpg





pict0061.jpg




多宝塔 - 国の重要文化財、元和6年(1620年)建立、高さ12m、檜皮葺

pict0063.jpg





pict0064.jpg




pict0066.jpg




常寂光寺からの眺望。

常寂光寺はここまで。

pict0068.1.jpg



落柿舎

pict0072.jpg





pict0074.jpg




二尊院総門

二尊院(にそんいん)は、京都市右京区の嵯峨野にある天台宗の寺院。
山号は小倉山。詳しくは、小倉山二尊教院華台寺という。
二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像による。
境内の墓地には、角倉了以、三条実美、阪東妻三郎らの墓がある。
総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、紅葉の名所として知られる。
また、奥には、百人一首ゆかりの、藤原定家の時雨亭跡とされる場所がある。

平安時代初期の承和年中(834年 - 847年)、
嵯峨天皇の勅により円仁(慈覚大師)が建立したと伝える。
以後、荒廃するが、鎌倉時代初期、法然の高弟である湛空らにより再興される。
応仁の乱により堂塔伽藍が全焼するが、
本堂と唐門が約30年後の永正18年(1521年)に三条西実隆によって再建された。

pict0075.jpg





pict0076.jpg






pict0077.jpg





pict0078.jpg





pict0079.jpg





pict0080.jpg





pict0081.jpg




二尊院本堂

pict0082.jpg






pict0085.jpg





pict0086.jpg





pict0087.jpg






pict0088.jpg






pict0089.jpg





pict0090.jpg




二尊院はここまで。

pict0091.jpg




祇王寺の近く。

pict0093.jpg





祇王寺にて。

祇王寺(ぎおうじ)は、京都市右京区にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。
寺自体は尼寺である。山号は高松山。院号は往生院。本尊は大日如来。

元々は浄土宗の僧・良鎮が創建した往生院の跡を引き継いで今日に至る。
また、平家物語には平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王と
仏御前が出家のため入寺したとしても知られている。
その後往生院は衰退をたどり、明治時代の初期に一時廃寺となるが、
嵯峨大覚寺の支配を受け真言宗に改宗し、
1905年(明治38年)に富岡鉄斎らの尽力もあって復興を遂げた。
苔の庭でも知られる。

pict0094.jpg




祇王寺の庭園には真っ白な猫が人を気にせずに寝ていた。

pict0095.jpg





pict0098.jpg





pict0100.jpg





pict0101.jpg





pict0102.jpg






pict0104.jpg






pict0105.1.jpg





祇王寺はここまで。

pict0106.jpg





タイミング良く行けたので、京都のどこを歩いていても紅葉は見事であった。

pict0107.jpg



化野念仏寺あたりにて。

pict0108.jpg





pict0108.1.jpg





pict0108.2.jpg





pict0108.3.jpg





pict0109.jpg





pict0110.jpg





pict0111.jpg




pict0112.jpg



愛宕神社一の鳥居前にある、鮎料理の老舗「つたや」

pict0113.jpg





pict0114.jpg





pict0115.jpg





pict0116.jpg





pict0116.1.jpg





pict0117.jpg





pict0118.jpg




大覚寺近く。

pict0119.jpg




大覚寺の表門

大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、
真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。
本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。
嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。
また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、
日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。
また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。
寺の境内(大沢池など)では映画やテレビ(特に時代劇)などの
撮影がよく行われている。

嵯峨野の北東に位置するこの地には、
平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。
嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、
修法を行ったのが起源とされる。
嵯峨天皇が死去してから30数年後の貞観18年(876年)、
皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。
淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂(こうじゃく)法親王、
仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。

鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、
ここで院政を行ったため「嵯峨御所」とも呼ばれた。
なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、
「中興の祖」と称されている。
亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、
後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。
この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。
元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、
南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に
「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。
このように、皇室ゆかりの寺院であり、
代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、
現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。

pict0122.jpg






大覚寺の式台玄関

pict0120.jpg





pict0123.jpg




勅使門

pict0124.jpg





pict0125.jpg




宸 殿

江戸時代、後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物。
天皇に入内された徳川2代将軍秀忠の娘東福門院和子が、
女御御所の宸殿として使用していたもの。
妻飾り、破風板、天井などに装飾がこらされている。
廊下・広縁はすべてうぐいす張りとなっている 。

pict0126.jpg






pict0127.jpg






pict0128.jpg






pict0129.jpg






pict0130.jpg





pict0131.jpg





pict0132.jpg






pict0133.jpg





pict0134.jpg




pict0136.jpg





pict0137.jpg





pict0138.jpg





pict0139.jpg





pict0140.jpg






pict0141.jpg






pict0143.jpg




心経宝塔

昭和42年(1967)、嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立された。
宝塔の基壇内部に如意宝珠を納めた真珠の小塔を安置する。
宝塔内部には秘鍵大師(弘法大師)の尊像を安置する。
大沢池のほとりに位置し、
嵯峨野の四季の風景にとけあった朱塗りの端正な姿が美しい。

pict0144.jpg





pict0145.jpg





大沢池のハス

pict0147.jpg





pict0147.2.jpg





pict0148.jpg





pict0149.1.jpg





pict0150.jpg





pict0151.jpg






pict0153.jpg






pict0154.jpg





大覚寺はここまで。

pict0155.jpg



ここで京都を後にした。

次に向かったのは滋賀県坂本の日吉大社であった。

ここは紅葉だけでなく、石橋も有名。



日吉大社は、滋賀県大津市坂本にある神社。俗に山王権現とも。
日本全国に約2000社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮である。
旧社格は官幣大社。中世には二十二社の下八社のひとつとされた。
西本宮と東本宮を中心に、400,000m2の境内を持つ。
猿を神の使いとして崇拝することで知られている。

文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。
此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見である。
牛尾山(八王子山)山頂に磐座があり、これが元々の信仰の地であった。
磐座を挟んで2社の奥宮(牛尾神社・三宮神社)があり、
現在の東本宮は崇神天皇7年に牛尾神社の里宮として
創祀されたものと伝えられている。
三宮神社に対する里宮は樹下神社である。
近江京遷都の翌年である天智天皇7年、大津京鎮護のため
大神神社の神を勧請した。
以降、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が
上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。
平安京遷都により、当社が京の鬼門に当たることから、
鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになった。
延喜式神名帳では名神大社に列格し、さらに二十二社の一社ともなった。
最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、
天台宗・延暦寺の守護神として崇敬した。
中国の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた
山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになった。
延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。
中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出した神輿は日吉大社のものである。
天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建された。
元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより日吉大社も灰燼に帰した。
現在見られる建造物は安土桃山時代以降に再建されたものである。
信長の死後、豊臣秀吉は当社の復興に尽力した。
これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから、
当社を特別な神社と考えたためである。
明治に入ると神仏分離令により、仏教色が廃された。
また、本来の形に戻すとして、
東本宮と西本宮の祭神を入れ替えて西本宮の大山咋神を主祭神とし、
大物主神を祀る東本宮は摂社・大神神社に格下げした。
昭和初年に元の形に復した。

pict0156.jpg





pict0157.jpg





pict0158.jpg





pict0159.jpg





pict0160.jpg





pict0161.jpg





pict0162.jpg





pict0163.jpg





pict0164.jpg





pict0165.jpg





pict0166.jpg




pict0167.jpg





pict0168.jpg





pict0169.jpg





pict0170.jpg





pict0171.jpg



日吉三橋(大宮橋、走井橋、二宮橋) - いずれも石橋である。
重要文化財


さて日吉三橋は日吉大社(十三万坪)の境内にある。
京阪電鉄石坂線の坂本駅から徒歩七分ぐらいのところにあり、
この土地は釈迦如来が大海原を渡ってきて止まったところ
という意味の「波止土膿(はしどの)」といわれ、橋殿、走井ともいう。
走井とは美しく清い水の湧出する地という意味だ。

境内の南を流れる大宮川に架かる日吉三橋は
豊臣秀吉が寄進した橋と伝えられ、国の重要文化財の石橋である。
もとは木造橋であったのが織田信長の比叡山焼き討ちによって焼失し、
その再建の折りに秀吉が寄進したものという伝えがある。

いまから五世紀も前に架けられた石橋と思うと感慨もひとしお。
この橋は安土桃山・江戸・明治・大正・昭和・平成の
各時代の老若男女たちが渡った橋なのだ。

比叡山の山麓にある坂本は滋賀院門跡をはじめ
多くの里坊がある静かな寺の町である。

ここはまた石垣積みで知られる穴太(あのう)衆による穴太積みの発祥の地で、
いたるところに風情のある穴太積みがみられる。
穴太衆が参加した城郭に織田信長による安土城、伏見城、篠山城、名古屋城、
小倉城、金沢城、和歌山城、近江八幡城、観音寺城、伊賀上野城、熊本城、
彦根城などがある(前掲書)。
かつてここにあった坂本城は明智光秀による築城であった。
日吉三橋も穴太衆の架橋という説もある。

日吉三橋はその名のごとく、三つの橋からなる。
大宮に通じる参道に架けられているのが大宮橋、
二宮に通じる参道に架けられているのが二宮橋、
この二つの橋にはさまれて大宮橋のすぐ下に架かるのが走井橋で、
いずれも小ぶりな愛らしい石橋である。


手前は走井橋

pict0174.jpg



白州正子は著書「かくれ里」で次のように書いている。

近江は石仏だけでなく、他の石造美術にも傑作が多いが、

中でも特筆すべきは、日吉神社の石橋であろう。・・・

堂々としていながら少しも重苦しさを感じさせない。

pict0175.jpg





pict0179.jpg





pict0180.jpg

撮影:Nikon D300



nice!(0)  コメント(6) 
共通テーマ:旅行

nice! 0

コメント 6

green_blue_sky

写真を見ただけで行きたくなります~
でも写真で我慢(大汗)
by green_blue_sky (2009-11-30 11:07) 

マリエ

見ごたえたっぷりの総合版140枚、凄い~(^-^)//""パチパチ
人を写さないようにって難しいですよね。
竹林もすがすがしくていいなぁ~
白州さんご夫婦ステキですよね、あんな日本人もいたのですね。
今回も沢山ありごとうございました。m(__)m
ご教授もさんこうにしますネ。
by マリエ (2009-11-30 17:21) 

kaoru

こんばんは。
見事なお写真ばかりで
紅葉も風景も竹林も全て
美しくて素晴らしいですね。
なかなか行く機会に恵まれないので
行った様な気分で楽しませて頂きました。
素敵なお写真に色々と教えて下さり
有難うございました。
by kaoru (2009-11-30 17:47) 

そらまめ

こんばんは。
あ~・・・紅葉満喫しました。
これで12月に突入できます(笑)
大文字草、ほんとに大の字の形ですね。
蓮が秋になるとあんなふうになるなんて
ちょっと寂しさを感じました。
by そらまめ (2009-11-30 18:58) 

mitsu

大作たんのーしましたよっ
私の紅葉はまだまだ続きます、、、、
本州で一番遅い紅葉!
そのまま年越しちゃいそーですけど、、、^^;
by mitsu (2009-12-01 16:20) 

soichiro

京都の紅葉、しっかり楽しませていただきました。
それぞれの木の紅葉、2つと同じ色はなく、改めて自然の
すごさを感じました。
かごの中の猫、一瞬どきっとしますね~。
そういえば私も去年京都に行きましたが、景色を楽しむ余裕は
全然ありませんでした。あぁ残念。
by soichiro (2009-12-02 13:59) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。