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風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。

僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。

京都の紅葉(4部・大覚寺と日吉大社) [京都と奈良・紅葉]

今回は、大覚寺と滋賀県坂本にある日吉大社を載せ、

「京都の紅葉」を締めたいと思う。



大覚寺の続きから。

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心経宝塔

昭和42年(1967)、嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立された。
宝塔の基壇内部に如意宝珠を納めた真珠の小塔を安置する。
宝塔内部には秘鍵大師(弘法大師)の尊像を安置する。
大沢池のほとりに位置し、
嵯峨野の四季の風景にとけあった朱塗りの端正な姿が美しい。

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大沢池のハス

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大覚寺はここまで。

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大覚寺を後にして、京都からそれほど遠くない滋賀県坂本の日吉大社に向かった。


ここからは日吉大社。

日吉大社は、滋賀県大津市坂本にある神社。俗に山王権現とも。
日本全国に約2000社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮である。
旧社格は官幣大社。中世には二十二社の下八社のひとつとされた。
西本宮と東本宮を中心に、400,000m2の境内を持つ。
猿を神の使いとして崇拝することで知られている。

文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。
此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見である。
牛尾山(八王子山)山頂に磐座があり、これが元々の信仰の地であった。
磐座を挟んで2社の奥宮(牛尾神社・三宮神社)があり、
現在の東本宮は崇神天皇7年に牛尾神社の里宮として
創祀されたものと伝えられている。
三宮神社に対する里宮は樹下神社である。
近江京遷都の翌年である天智天皇7年、大津京鎮護のため
大神神社の神を勧請した。
以降、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が
上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。
平安京遷都により、当社が京の鬼門に当たることから、
鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになった。
延喜式神名帳では名神大社に列格し、さらに二十二社の一社ともなった。
最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、
天台宗・延暦寺の守護神として崇敬した。
中国の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた
山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになった。
延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いた。
中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出した神輿は日吉大社のものである。
天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国に勧請・創建された。
元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより日吉大社も灰燼に帰した。
現在見られる建造物は安土桃山時代以降に再建されたものである。
信長の死後、豊臣秀吉は当社の復興に尽力した。
これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから、
当社を特別な神社と考えたためである。
明治に入ると神仏分離令により、仏教色が廃された。
また、本来の形に戻すとして、
東本宮と西本宮の祭神を入れ替えて西本宮の大山咋神を主祭神とし、
大物主神を祀る東本宮は摂社・大神神社に格下げした。
昭和初年に元の形に復した。

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日吉三橋(大宮橋、走井橋、二宮橋) - いずれも石橋である。
重要文化財


さて日吉三橋は日吉大社(十三万坪)の境内にある。
京阪電鉄石坂線の坂本駅から徒歩七分ぐらいのところにあり、
この土地は釈迦如来が大海原を渡ってきて止まったところ
という意味の「波止土膿(はしどの)」といわれ、橋殿、走井ともいう。
走井とは美しく清い水の湧出する地という意味だ。

境内の南を流れる大宮川に架かる日吉三橋は
豊臣秀吉が寄進した橋と伝えられ、国の重要文化財の石橋である。
もとは木造橋であったのが織田信長の比叡山焼き討ちによって焼失し、
その再建の折りに秀吉が寄進したものという伝えがある。

いまから五世紀も前に架けられた石橋と思うと感慨もひとしお。
この橋は安土桃山・江戸・明治・大正・昭和・平成の
各時代の老若男女たちが渡った橋なのだ。

比叡山の山麓にある坂本は滋賀院門跡をはじめ
多くの里坊がある静かな寺の町である。

ここはまた石垣積みで知られる穴太(あのう)衆による穴太積みの発祥の地で、
いたるところに風情のある穴太積みがみられる。
穴太衆が参加した城郭に織田信長による安土城、伏見城、篠山城、名古屋城、
小倉城、金沢城、和歌山城、近江八幡城、観音寺城、伊賀上野城、熊本城、
彦根城などがある(前掲書)。
かつてここにあった坂本城は明智光秀による築城であった。
日吉三橋も穴太衆の架橋という説もある。

日吉三橋はその名のごとく、三つの橋からなる。
大宮に通じる参道に架けられているのが大宮橋、
二宮に通じる参道に架けられているのが二宮橋、
この二つの橋にはさまれて大宮橋のすぐ下に架かるのが走井橋で、
いずれも小ぶりな愛らしい石橋である。


手前は走井橋

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白州正子は著書「かくれ里」で次のように書いている。

近江は石仏だけでなく、他の石造美術にも傑作が多いが、

中でも特筆すべきは、日吉神社の石橋であろう。・・・

堂々としていながら少しも重苦しさを感じさせない。

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撮影:Nikon D300


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