風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。
僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。奈良の紅葉(3部・長谷寺と室生寺) [京都と奈良・紅葉]
引き続き「奈良の紅葉」を載せたいと思う。
長谷寺の続きからである。
長谷寺の本堂の床への映り込みを撮影。
本堂
長谷寺五重塔
本坊越しの竹やぶを撮影。
本坊を撮影。
本坊より本堂を望む。
仁王門
ここからは室生寺にて。
室生寺は赤い橋を渡る。
室生寺(むろうじ)は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。
山号を宀一山(べんいちさん)と号する。
開基(創立者)は、賢璟(けんきょう)、本尊は釈迦如来である。奈良盆地の東方、
三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。
宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在する。
平安時代前期の建築や仏像を伝え、境内はシャクナゲの名所としても知られる。
女人禁制だった高野山に対し、
女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。
なお、山号の「宀一」は「室生」の略だという。仏塔古寺十八尊第十八番。
天武天皇9年(680年)、役小角(えんのおづぬ、役行者)の草創、
空海の中興という伝承もあるが、記録で確認できる限りでは、
奈良時代最末期の草創と思われる。
室生寺の東方約1キロのところには竜神を祀る室生竜穴(りゅうけつ)神社があるが、
室生寺の草創にも竜神が関係している。
『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)によると、
奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)、
時の東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、
室生の地において延寿の法を修したところ、竜神の力でみごとに回復したので、
興福寺の僧・賢璟(けんきょう)が朝廷の命でここに寺院を造ることになったという。
賢璟は延暦12年(793年)没しており、
造営は同じ興福寺の僧である弟子の修円に引き継がれた。
修円は承和2年(835年)に没しているが、現存の室生寺の堂塔のうち、
この時期(9世紀前半)にまでさかのぼると見られるのは五重塔のみであり、
現在のような伽藍が整うまでには相当の年数を要したものと思われる。
草創にかかわった2人の人物が興福寺僧であった関係から、
室生寺は長らく興福寺との関係が深かったが、
時代は下って江戸時代の元禄11年(1698年)、興福寺の法相宗から独立して、
真言宗寺院となった。
女人の入山が許されたことから「女人高野」と呼ばれ、
これは室生寺の代名詞にもなっている。
近世には5代将軍徳川綱吉の母桂昌院の寄進で堂塔が修理されている。
1964年には真言宗豊山派から独立し、真言宗室生寺派の大本山となった。
室生山の山麓から中腹にかけてが境内となっている。
典型的な山岳寺院で、石段を上るごとに次の堂宇が現れる。
仁王門(近代の再建)をくぐり、最初の急な石段(鎧坂という)を上がると、
正面に金堂(平安時代、国宝)、左に弥勒堂(鎌倉時代、重文)がある。
さらに石段を上ると如意輪観音を本尊とする本堂(灌頂堂)(鎌倉時代、国宝)、
その上に五重塔(平安時代初期、国宝)があり、
石段は空海を祀る奥の院御影堂(みえどう、室町時代前期、重文)へと続いている。
弥勒堂
金堂
本堂屋根部分
室生寺五重塔
金堂
撮影:Nikon D300
長谷寺の続きからである。
長谷寺の本堂の床への映り込みを撮影。
本堂
長谷寺五重塔
本坊越しの竹やぶを撮影。
本坊を撮影。
本坊より本堂を望む。
仁王門
ここからは室生寺にて。
室生寺は赤い橋を渡る。
室生寺(むろうじ)は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。
山号を宀一山(べんいちさん)と号する。
開基(創立者)は、賢璟(けんきょう)、本尊は釈迦如来である。奈良盆地の東方、
三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。
宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在する。
平安時代前期の建築や仏像を伝え、境内はシャクナゲの名所としても知られる。
女人禁制だった高野山に対し、
女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。
なお、山号の「宀一」は「室生」の略だという。仏塔古寺十八尊第十八番。
天武天皇9年(680年)、役小角(えんのおづぬ、役行者)の草創、
空海の中興という伝承もあるが、記録で確認できる限りでは、
奈良時代最末期の草創と思われる。
室生寺の東方約1キロのところには竜神を祀る室生竜穴(りゅうけつ)神社があるが、
室生寺の草創にも竜神が関係している。
『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)によると、
奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)、
時の東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、
室生の地において延寿の法を修したところ、竜神の力でみごとに回復したので、
興福寺の僧・賢璟(けんきょう)が朝廷の命でここに寺院を造ることになったという。
賢璟は延暦12年(793年)没しており、
造営は同じ興福寺の僧である弟子の修円に引き継がれた。
修円は承和2年(835年)に没しているが、現存の室生寺の堂塔のうち、
この時期(9世紀前半)にまでさかのぼると見られるのは五重塔のみであり、
現在のような伽藍が整うまでには相当の年数を要したものと思われる。
草創にかかわった2人の人物が興福寺僧であった関係から、
室生寺は長らく興福寺との関係が深かったが、
時代は下って江戸時代の元禄11年(1698年)、興福寺の法相宗から独立して、
真言宗寺院となった。
女人の入山が許されたことから「女人高野」と呼ばれ、
これは室生寺の代名詞にもなっている。
近世には5代将軍徳川綱吉の母桂昌院の寄進で堂塔が修理されている。
1964年には真言宗豊山派から独立し、真言宗室生寺派の大本山となった。
室生山の山麓から中腹にかけてが境内となっている。
典型的な山岳寺院で、石段を上るごとに次の堂宇が現れる。
仁王門(近代の再建)をくぐり、最初の急な石段(鎧坂という)を上がると、
正面に金堂(平安時代、国宝)、左に弥勒堂(鎌倉時代、重文)がある。
さらに石段を上ると如意輪観音を本尊とする本堂(灌頂堂)(鎌倉時代、国宝)、
その上に五重塔(平安時代初期、国宝)があり、
石段は空海を祀る奥の院御影堂(みえどう、室町時代前期、重文)へと続いている。
弥勒堂
金堂
本堂屋根部分
室生寺五重塔
金堂
撮影:Nikon D300
長谷寺、室生寺には訪れた事がないんですが、
機会があれば、一度訪れてみたいですね♪
by きしりん (2009-11-24 01:38)
苔むす屋根、なんだかすてきですね。
旗の写りこみもいいですねー。
by soichiro (2009-11-27 11:51)