風景写真、猫の写真など載せています。楽しんでもらえればと思います。
僕の写真紀行は容量いっぱいになりましたので、 僕の写真紀行2に移行します。 またよろしくお願いします。滋賀・聖徳太子ゆかりの寺(2部) [滋賀県古寺シリーズ]
引き続き「滋賀・聖徳太子ゆかりの寺」を載せたいと思う。
喫茶店「シャーレー水ヶ浜」からの琵琶湖の眺め。
ここで食事をした。
雨が降っていたが、降りこんでいない席があったので
外に出てみた。
湖を眺めながらの食事は気持ちがいい。
看板メニューの「ビーフカレー」
丸一日かけて煮込むまろやかな口当たりのカレー
「シャーレー水ヶ浜」の入り口脇にある階段を下りて湖岸に出てみた。
喫茶店を後にした。
次に向かったのは石馬寺であった。
「聖徳太子霊験 石馬の池」
石馬寺も白州正子さんの著書に紹介されていたものである。
(石馬寺の解説)
滋賀県神崎郡五個荘町に座する石馬寺(いしばじ)は、
北は猪子山から南は観音寺山(繖山)まで続く山地の、
ちょうど真ん中あたりにそびえる瓜生山(標高約300m)の麓に位置している。
この山地を境にして、西は蒲生郡安土町、東は神崎郡五個荘町となる。
石馬寺は、聖徳太子が創建した寺院だといわれている。
伝説によると、この地へやってきた聖徳太子が霊地を求めて山上へ登頂し、
そして再び山麓へ戻ってみると、
自分の乗っていた馬が沼に沈んで石化していたという。
このことに脅威を感じた聖徳太子は、その山麓に寺院を建てた。
これが石馬寺の始まりである。
現在でも、石馬寺の前には池があり、
その中には「石化した馬」とされる石が沈められている。
このことから、石馬寺は「馬の寺」として知られている。
やはりここも石段が続いていた。
石段を上っていくと、雨宮瀧神社という神社もある。
「始終苦坂」
数えてみると確かに49段あった。
駐車場には蟹がいた。
次に向かったのは石塔寺であった。
(石塔寺の解説)
石塔寺(いしどうじ)は、滋賀県東近江市にある天台宗の寺院。
本尊は聖(しょう)観世音菩薩(秘仏)。
「石塔寺」の名のとおり、境内には、阿育王塔と呼ばれる石造三重塔を中心に、
数万基の石塔や石仏が並ぶ。
毎年8月末には、「石塔フェスティバル(石塔寺万燈祭)」が開かれ、
石塔と石仏に献灯が行われる。
近江西国三十三箇所観音霊場第二十二番札所。
石塔寺は、聖徳太子創建の伝承をもつ寺院である。
伝承によれば、聖徳太子は近江に48か寺を建立し、
石塔寺は48番目の満願の寺院で、本願成就寺と称したという。
聖徳太子創建との伝承をそのまま史実と受け取ることはできない。
しかし、石塔寺がある滋賀県湖東地区には
他にも西国三十三箇所札所寺院の長命寺(近江八幡市)、
百済寺(ひゃくさいじ、東近江市)など、聖徳太子創建伝承をもつ寺院が多く、
この地が早くから仏教文化の栄えた土地であるとともに、
聖徳太子とも何らかのつながりのあったことを思わせる。
石塔寺境内にある数万基の石塔群の中で、
ひときわ高くそびえる三重石塔については、次のような伝承がある。
平安時代の長保3年(1003年)に唐に留学した比叡山の僧・寂照法師は、
五台山に滞在中、五台山の僧から、
「昔インドの阿育王が仏教隆盛を願って
三千世界に撒布した8万4千基の仏舎利塔のうち、
2基が日本に飛来しており、1基は琵琶湖の湖中に沈み、
1基は近江国渡来山(わたらいやま)の土中にある」と聞いた。
寂照は日本に手紙を送ってこのことを知らせた。
3年後の寛弘3年(1006年)、播州明石(兵庫県明石市)の僧・義観僧都が
この手紙を入手し、一条天皇に上奏した。
そして、一条天皇の勅命により、塔の探索を行ったところ、
武士の野谷光盛なる者が、石塔寺の裏山に大きな塚を発見した。
野谷光盛と天皇の勅使平恒昌が掘ってみたところ、阿育王塔が出土した。
一条天皇は大変喜び、七堂伽藍を新たに建立し、
寺号を阿育王山石塔寺と改号した。
寺は一条天皇の勅願寺となり、隆盛を極め、八十余坊の大伽藍を築いたという。
以上の伝承のうち、「インドの阿育王」云々が
後世の仮託であることは言うまでもなく、
件の石塔は、実際には奈良時代前期(7世紀)頃に、
朝鮮半島系の渡来人によって建立されたとみるのが通説である。
この石塔は、日本各地にある中世以前の石塔とは
全く異なった様式をもつものであり、朝鮮半島の古代の石造物に類似している。
湖東地区が渡来人と関係の深い土地であることは、
『日本書紀』に天智天皇8年(669年)、
百済(当時すでに滅亡していた)からの渡来人700名余を
近江国蒲生野(滋賀県蒲生郡あたり)へ
移住させた旨の記述があることからも裏付けられ、
石塔寺の三重石塔も百済系の渡来人によって
建立されたものであるとの見方が一般的である。
鎌倉時代には、三重石塔(伝・阿育王塔)の周りの境内に、
五輪塔や石仏が多数奉納された。
安土桃山時代、織田信長の焼き討ちにより、
七堂伽藍、木造建築物、寺宝が全て焼失し、寺は荒廃した。
その後、江戸時代初期、天海が弟子の行賢に指示し、一部復興されている。
本堂
滋賀の寺は石段ばかりだなと思った。
石段を上りきると同時に見えてくるのだが、
思わず「わっ、綺麗」と声を出してしまった。
こういったものに今まで心を動かされることはなかった気がするが、
まじまじと見てみて、本当に綺麗なものだなと思えた。
白州正子は著書「かくれ里」で次のように述べている。
「私は日本一の石塔だと信じている・・・
全体の感じが柔らかく、しっとりとしていて、例えば高麗の茶碗に似た
味わいがある。」
山門
撮影:panasonic LUMIX DMC-G1
喫茶店「シャーレー水ヶ浜」からの琵琶湖の眺め。
ここで食事をした。
雨が降っていたが、降りこんでいない席があったので
外に出てみた。
湖を眺めながらの食事は気持ちがいい。
看板メニューの「ビーフカレー」
丸一日かけて煮込むまろやかな口当たりのカレー
「シャーレー水ヶ浜」の入り口脇にある階段を下りて湖岸に出てみた。
喫茶店を後にした。
次に向かったのは石馬寺であった。
「聖徳太子霊験 石馬の池」
石馬寺も白州正子さんの著書に紹介されていたものである。
(石馬寺の解説)
滋賀県神崎郡五個荘町に座する石馬寺(いしばじ)は、
北は猪子山から南は観音寺山(繖山)まで続く山地の、
ちょうど真ん中あたりにそびえる瓜生山(標高約300m)の麓に位置している。
この山地を境にして、西は蒲生郡安土町、東は神崎郡五個荘町となる。
石馬寺は、聖徳太子が創建した寺院だといわれている。
伝説によると、この地へやってきた聖徳太子が霊地を求めて山上へ登頂し、
そして再び山麓へ戻ってみると、
自分の乗っていた馬が沼に沈んで石化していたという。
このことに脅威を感じた聖徳太子は、その山麓に寺院を建てた。
これが石馬寺の始まりである。
現在でも、石馬寺の前には池があり、
その中には「石化した馬」とされる石が沈められている。
このことから、石馬寺は「馬の寺」として知られている。
やはりここも石段が続いていた。
石段を上っていくと、雨宮瀧神社という神社もある。
「始終苦坂」
数えてみると確かに49段あった。
駐車場には蟹がいた。
次に向かったのは石塔寺であった。
(石塔寺の解説)
石塔寺(いしどうじ)は、滋賀県東近江市にある天台宗の寺院。
本尊は聖(しょう)観世音菩薩(秘仏)。
「石塔寺」の名のとおり、境内には、阿育王塔と呼ばれる石造三重塔を中心に、
数万基の石塔や石仏が並ぶ。
毎年8月末には、「石塔フェスティバル(石塔寺万燈祭)」が開かれ、
石塔と石仏に献灯が行われる。
近江西国三十三箇所観音霊場第二十二番札所。
石塔寺は、聖徳太子創建の伝承をもつ寺院である。
伝承によれば、聖徳太子は近江に48か寺を建立し、
石塔寺は48番目の満願の寺院で、本願成就寺と称したという。
聖徳太子創建との伝承をそのまま史実と受け取ることはできない。
しかし、石塔寺がある滋賀県湖東地区には
他にも西国三十三箇所札所寺院の長命寺(近江八幡市)、
百済寺(ひゃくさいじ、東近江市)など、聖徳太子創建伝承をもつ寺院が多く、
この地が早くから仏教文化の栄えた土地であるとともに、
聖徳太子とも何らかのつながりのあったことを思わせる。
石塔寺境内にある数万基の石塔群の中で、
ひときわ高くそびえる三重石塔については、次のような伝承がある。
平安時代の長保3年(1003年)に唐に留学した比叡山の僧・寂照法師は、
五台山に滞在中、五台山の僧から、
「昔インドの阿育王が仏教隆盛を願って
三千世界に撒布した8万4千基の仏舎利塔のうち、
2基が日本に飛来しており、1基は琵琶湖の湖中に沈み、
1基は近江国渡来山(わたらいやま)の土中にある」と聞いた。
寂照は日本に手紙を送ってこのことを知らせた。
3年後の寛弘3年(1006年)、播州明石(兵庫県明石市)の僧・義観僧都が
この手紙を入手し、一条天皇に上奏した。
そして、一条天皇の勅命により、塔の探索を行ったところ、
武士の野谷光盛なる者が、石塔寺の裏山に大きな塚を発見した。
野谷光盛と天皇の勅使平恒昌が掘ってみたところ、阿育王塔が出土した。
一条天皇は大変喜び、七堂伽藍を新たに建立し、
寺号を阿育王山石塔寺と改号した。
寺は一条天皇の勅願寺となり、隆盛を極め、八十余坊の大伽藍を築いたという。
以上の伝承のうち、「インドの阿育王」云々が
後世の仮託であることは言うまでもなく、
件の石塔は、実際には奈良時代前期(7世紀)頃に、
朝鮮半島系の渡来人によって建立されたとみるのが通説である。
この石塔は、日本各地にある中世以前の石塔とは
全く異なった様式をもつものであり、朝鮮半島の古代の石造物に類似している。
湖東地区が渡来人と関係の深い土地であることは、
『日本書紀』に天智天皇8年(669年)、
百済(当時すでに滅亡していた)からの渡来人700名余を
近江国蒲生野(滋賀県蒲生郡あたり)へ
移住させた旨の記述があることからも裏付けられ、
石塔寺の三重石塔も百済系の渡来人によって
建立されたものであるとの見方が一般的である。
鎌倉時代には、三重石塔(伝・阿育王塔)の周りの境内に、
五輪塔や石仏が多数奉納された。
安土桃山時代、織田信長の焼き討ちにより、
七堂伽藍、木造建築物、寺宝が全て焼失し、寺は荒廃した。
その後、江戸時代初期、天海が弟子の行賢に指示し、一部復興されている。
本堂
滋賀の寺は石段ばかりだなと思った。
石段を上りきると同時に見えてくるのだが、
思わず「わっ、綺麗」と声を出してしまった。
こういったものに今まで心を動かされることはなかった気がするが、
まじまじと見てみて、本当に綺麗なものだなと思えた。
白州正子は著書「かくれ里」で次のように述べている。
「私は日本一の石塔だと信じている・・・
全体の感じが柔らかく、しっとりとしていて、例えば高麗の茶碗に似た
味わいがある。」
山門
撮影:panasonic LUMIX DMC-G1
2009-10-01 12:09
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